聖書を開こう 2019年10月31日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  キリストの立派な奉仕者(1テモテ4:6-10)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 今学んでいるテモテへの手紙は、年老いた人物が、教会の若い働き人に宛てた手紙です。わたし自身が所属する教派の中で考えると、自分はもはや若い働き人とは言えない年齢に達しました。むしろ、教会の中での立場は、この手紙の書き手である年老いた人物に近づいているかもしれません。

 私自身が、教会の若手の牧師たちに何かを書くとしたら、どんなことをどう書くだろうかと思いめぐらせながら、この手紙を読んでいます。自分が牧師になったのはついこの前のことのように思いますが、時間が経つのは早いものです。

 年を取ると、ついつい昔の自分たちの方がずっと今の若い者たちよりも優れていると錯覚しがちです。「今の若い者たちは…」という言葉は、どの時代の先輩たちも口にする言葉です。しかし、この手紙の中には、若いテモテをくさすような言葉は出てきません。むしろ、この若い教会の指導者が、真に成長し、教会の誰からも信頼されることを願っている思いが伝わってきます。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 テモテへの手紙一 4章6節〜10節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 これらのことを兄弟たちに教えるならば、あなたは、信仰の言葉とあなたが守ってきた善い教えの言葉とに養われて、キリスト・イエスの立派な奉仕者になります。俗悪で愚にもつかない作り話は退けなさい。信心のために自分を鍛えなさい。体の鍛錬も多少は役に立ちますが、信心は、この世と来るべき世での命を約束するので、すべての点で益となるからです。この言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしたちが労苦し、奮闘するのは、すべての人、特に信じる人々の救い主である生ける神に希望を置いているからです。

 前回取り上げた個所では、教会にやがて偽りの教えが忍び込み、まことの信仰から逸れていってしまう者たちが現れる時が来ることが告げられていました。そうした教えは、いかにももっともらしいように見えます。そこでパウロは偽りの教えに惑わされることがないように、偽りの教えが持っている欺瞞さを指摘しました。

 初代教会の信仰者に限らず、現代を生きるクリスチャンも、まことの神を信じてこの世界に生きるとはどういうことなのかが、絶えず問われています。聖書の教えを信じて生きるということは、生活の全般にわたるものです。食べるという営みも、配偶者を得て共に暮らすということも、神を信じることとは別の世界の営みでは決してありません。

 パウロは、若いテモテが教会の奉仕者として健全な教えをもって教会を導くことを期待しています。

 「これらのことを兄弟たちに教えるならば、あなたは、信仰の言葉とあなたが守ってきた善い教えの言葉とに養われて、キリスト・イエスの立派な奉仕者になります」

 「これらのこと」という表現をこの手紙の著者はよく使っています(4:11, 15; 6:2, 11)。「これらのこと」が、ここでは具体的に何を指すのかをあえて言えば、先週取り上げた個所全体のことでしょう。特に結婚を禁じたり、ある種の食物を経つことに特別な意味を見出している欺瞞的な教えに、まことの神を信じる信仰者の立場からどう反論するのか、ということでしょう。

 これらのことを兄弟たちに教えることを、この若いテモテにパウロは期待しています。

 「教える」と訳されているこの言葉は、新約聖書の中には二回しか出てこない言葉です。その本来の意味は、「下に置く」ということで、二回の用例のうちの一つ、ローマの信徒への手紙16章4節「命がけでわたしのいのちを守ってくれた」というところに出てきます。つまり、「自分たちの首をわたしの命のために下に置いた」という表現です。このテモテへの手紙の個所では、「命じる」「教える」という意味で使われていますが、言葉のニュアンスからすると、まるで敷石か基礎のように、これらのことを下に置いて、その上に信仰生活を築かせるイメージです。

 物事をどうとらえて考えるか、その根本的な視点が大切です。ただ単にある食物を食べるか避けるか、そういう表面的な結論だけを教えても意味がありません。結論に導く、信仰的な物事の捉えかたこそ、基礎に据えるべきことからです。パウロが語っている「教える」という行為は、そういうニュアンスを持ったものです。

 教会員を指導するとき、安易に結論だけを覚えさせようとすることがしばしばあります。例えば、日本の教会では、死者の遺影に手を合わせてはいけないとか、お葬式ではお焼香をしてはいけないとか、あるいは何の考えもなく、献花ならしてもよいとか、そういう結論だけを教え込むことがしばしばあります。教会員を支配下に置き、意のままに治めるためには、その方が都合がいいかもしれません。しかし、それでは別の問題にぶつかった時に自分で聖書から考えて結論を導き出すことはできません。

 キリストの良い奉仕者は、決して結論だけを教える者ではありません。教えられたことを基礎として、聖書の教えに立ってどう信仰的に生きるかを考えることができるように信仰者を育てる人です。

 もちろん、テモテ自身がそのように教育されていなければ、人を育てることもできません。「信仰の言葉とあなたが守ってきた善い教えの言葉とに養われて、キリスト・イエスの立派な奉仕者になります」とは、正にそういうことでしょう。

 パウロはさらに若いテモテを指導して、こう述べます。

 「俗悪で愚にもつかない作り話は退けなさい。信心のために自分を鍛えなさい。」

 「信心のために自分を鍛える」という表現は、現代社会に生きる私たちにとって、とても興味深い表現です。

 今、この世の人たちが「自分を鍛える」としたら、それは何のためでしょう。いったいどんな答えが返ってくるでしょうか。少なくとも「信心のために自分を鍛える」という答えは、誰一人として思いつかないことでしょう。敬虔な信仰心ほど、現代社会で失われているものはありません。顧みられることもありません。

 しかし、敬虔な信仰心を追い求めないために、どう生きるかを見失っているのが人々の現状です。

 「信心は、この世と来るべき世での命を約束するので、すべての点で益となる」とパウロは述べています。来るべき世について考えることがすっぽりと抜け落ち、この世のことにしか関心がない生き方には、まことの命がありません。いえ、敬虔な信仰心のために自分自身を鍛える時にこそ、来るべき世に対する関心と希望とが伴ってくるのです。

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