メッセージ: 秘められた真理(1テモテ3:14-16)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
今日取り上げようとしている個所は、一見簡単そうに見えて、なかなか手ごわい個所です。簡単そう、という理由は、パウロはここでテモテを訪問しようとしていることは、手紙の言葉から明らかです。そして、訪問の時期が遅れる場合、神の家である教会でどう過ごすべきか、あらかじめ指示を出しておく、というのが、今日の個所です。
そのことを言う中で、教会のことを「真理の柱であり土台である」と表現します。では、教会はどういう意味で「真理の柱」であり「真理の土台」なのでしょう。
さらに、「信心の秘められた真理」という言葉が突然登場します。確かに、すでに3章9節で「信仰の秘められた真理」という表現が出ていますから、ここに出てきたとしても唐突ではないかもしれません。しかし、「秘められた真理」とは何でしょう。
などなど考えると、それほど簡単に理解できる個所ではありません。そして、最後に置かれた詩のような、信仰告白のような文は、いったい誰の言葉なのでしょう。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 テモテへの手紙一 3章14節〜16節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
わたしは、間もなくあなたのところへ行きたいと思いながら、この手紙を書いています。行くのが遅れる場合、神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたいのです。神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。信心の秘められた真理は確かに偉大です。すなわち、キリストは肉において現れ、”霊”において義とされ、天使たちに見られ、異邦人の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。
きょう取り上げた個所には、パウロの個人的な思いが綴られています。
「わたしは、間もなくあなたのところへ行きたいと思いながら、この手紙を書いています」
もともとこの手紙は、パウロがテモテ個人に書いた手紙ですから、その内容が個人的な事柄に触れられていたとしてもまったく不思議ではありません。すでに手紙の冒頭部分で記されているように、マケドニアに向かうパウロから、テモテはエフェソに留まるようにと命じられています。そのテモテのもとへ、パウロが戻ってこようとしている、というのがこの個所の状況です。
しかし、パウロは単に自分の予定をテモテに対して伝えている、というのではなく、むしろ、本当の狙いは、自分がテモテのもとへ行くまでの期間、教会の中で信徒たちがどのように過ごすべきか、テモテに指示を出しておく、ということです。
具体的な指示は4章に入ってから記されますが、先ほども冒頭で触れた通り、ここではいくつかの点に注意を払いながら、読み進めていきたいと思います。
パウロの関心は「教会」での過ごし方や行動にあります。キリストに対して信仰を抱くものとして、教会でどのように生きていくのか、それはとても大切なことです。
パウロはここで「教会」という言葉を使う前に、「神の家」という言葉を使っています。旧約聖書の中で「神の家」あるいは「主の家」と言えば、エルサレムの神殿を指す言葉として旧約聖書には頻繁に出て来ます(詩編42:5, ゼカリヤ8:9など)。その場合、神殿の「建物」をイメージしがちですが、主の幕屋にしろ神殿にしろ、それが示しているものは、「神が共に住んでくださる」という真理です(出エジプト25:8, 列王記上8:12-13, エゼキエル43:7)。
「教会」を「神の家」と表現したのは、まさにそういうイメージを伝えたかったからでしょう。言うまでもなく、初代教会の人々が集まったのは、今日のような教会堂ではありませんでした。文字通り何の変哲もない誰かの家でした。しかし、そこにみんなが集まるとき、神がそこに共に留まってくださるのです。
しかし、共に集う時間は限られています。けれどもパウロが「神の家」というとき、そこに集まった時だけ一時的に表れる「家」ではありません。むしろ、神がいつも共にいてくださる共同体のイメージです。「神の家族」「神の家庭」と訳してもよいでしょう。神が共にいてくださる神の家族の中でどう日々を過ごすか、そのことをパウロはテモテに伝えようとしています。「教会」とはそういう信仰の共同体です。
さらに、パウロはこの「神の家」を指して「生ける神の教会」「真理の柱であり土台」と呼んでいます。「神の家」を単に「神の教会」と言い換えるだけではありません。「生ける神」の教会とわざわざ言い換えています。もちろん、旧約の時代から、聖書の神は生きた神です。しかし、ここでわざわざ「生ける」という言葉を加えたのには、意味があってのことでしょう。神はイエス・キリストを通してまことの命を回復してくださるお方だからです。
そして、この教会を「真理の柱であり土台」と言い換えます。もちろん、土台と柱は全く違う役割のものです。しかし、建物にとってどちらも重要で、これがなければ、建物は立ち行かないものです。そういう意味では土台も柱も共通したイメージを持つものです。
ただ、ここで問題となるのは、教会はどういう意味で、「真理の柱であり土台」なのかということです。実はこの個所は、日本語で読んでも、ギリシア語で読んでも、二通りの解釈が成り立ちます。
つまり、教会が「真理の柱であり土台」という読み方と、生ける神が「真理の柱であり土台」であるお方である、という読み方です。つまり、ここでは教会が「真理の柱であり土台」なのではなく、神が「真理の柱であり土台」ということです。その方が聖書全体の教えからも調和があるように思います。しかも、ここでいう「真理の柱」「真理の土台」とは、「真理という柱」「真理という土台」という意味でしょう。神は真理であって、その真理の上に教会は建てられ、その真理を柱として教会が建ちあがっていくというイメージです。
最後にパウロは「秘められた真理」に言及します。「秘められた真理」という言葉は「ミュステーリオン」という言葉で、新共同訳聖書の中では「(神の国の)秘密」(マタイ13:11)と訳されたり、「秘められた計画」(ローマ11:25)と訳されたり、「(福音の)神秘」(エフェソ6:19)などと訳されています。口語訳聖書では「奥義」と訳されていました。その秘められた真理は、今やキリストによって明らかに示されています。
「キリストは肉において現れ、”霊”において義とされ、天使たちに見られ、異邦人の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」
この信仰告白の言葉は、「現れた」「見られた」「宣べ伝えられた」「上げられた」という一連の言葉が示しているように、キリストの救いは、秘められた事柄ではなく、公然とした事実であることを高らかに歌っています。特に「肉において現れた」という表現は、キリストの救いが目に見えない霊的な世界の出来事である、という考えに真っ向から反対しているように思えます。
そうです。キリストの救いは、現実の出来事です。その現実の世界に、今、救われた者たちも生きているのです。