聖書を開こう 2019年9月19日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  すべての人のための執り成しの祈り(1テモテ2:1-7)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 番組のリスナーからしばしば寄せられる質問に、「祈ることができないのですが、どうしたらよいでしょうか」という質問があります。祈ることができない理由は、人それぞれにあります。あまりにも忙しくて、落ち着いた時間が中々取れないという人もいます。あるいは、苦しみが大きすぎて、祈る気持ちになれない、という人もいます。家族の中でたった一人、クリスチャンである人は、周りの家族を気にしすぎて祈れない、ということもあります。

 祈ることができる人から見れば、そんな理由は取るに足りない、と思われるかもしれません。けれども、無理強いしたとしても、決してその人が祈れるようになるとは限りません。祈れないという苦しさの中で、ますます祈ることができない自分に失望してしまうことさえあります。

 こんな時、イエス・キリストなら、その質問にどうお答えになるだろうかと思います。福音書に描かれているイエス・キリストのお姿を見る限り、祈れないなどという経験は、このお方にはきっとないことでしょう。十字架の苦しみのその時にも、父なる神に祈るイエス・キリストです。

 けれども、イエス・キリストは人々の弱さや苦しみを理解できないお方では決してありません。弱いペトロが、イエス・キリストとの関係を否定して、信仰の弱さに自分自身が悩むことを見越して、イエス・キリストはペトロのために信仰がなくならないようにと、とりなしの祈りをしました。そして立ち直った時には、兄弟たちを力づけるようにとおっしゃいました(ルカ22:32)。おそらく、これがイエス・キリストのお答えなのだと思います。

 「あなたが祈れないとき、わたしがあなたのために祈っている。だから、祈れるようになったら、ほかの人のために祈りなさい」。そうお答えになるように思います。

 さて、今日取り上げる個所には、とりなしの祈りの勧めがなされています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 テモテへの手紙一 2章1節〜7節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しです。わたしは、その証しのために宣教者また使徒として、すなわち異邦人に信仰と真理を説く教師として任命されたのです。わたしは真実を語っており、偽りは言っていません。

 パウロはテモテに、第一のこととして、「願いと祈りと執り成しと感謝」とをすべての人々のためにささげることを勧めています。「願いと祈りと執り成しと感謝」という四つの事柄をするように書かれていますが、おそらく、パウロの念頭にあったのは、この四つが一つの祈りの要素として考えられていたのでしょう。言い換えれば、祈るときには、ただ何かを願う、ということに限定されないで、そこには、執り成しや感謝も含まれるということです。

 もちろん、祈りにはそれ以外の要素も含まれます。例えば、神への賛美、自分の罪の告白なども含まれます。ただ、ここでは「すべての人々のため」の祈りですから、「賛美」や「罪の告白」といった要素にはあえて触れなかったのでしょう。他者のために何かを願う、他者のことを神に執り成す、他者のことで神に感謝する、そういう祈りをパウロは念頭に置いていたものと思われます。

 その中でも、「執り成し」に関しては、仲介者であるイエス・キリストについてわざわざ触れていることから考えると、この祈りについての勧めの中で「執り成し」は重要な位置であると思われます。

 ところで、この短い勧めの言葉の中に「すべての人々」あるいは「すべての人」という表現が合わせて3回出てきます。ここでいう「すべての人」とは、身分や地位、人種や性別にかかわることなく、という意味での「すべての人」ということでしょう。人の救いに関して、そうした先入観や予断を許してはなりません。誤解を恐れず言えば、「宗教」や「信条」を理由に、あの人のためには祈らない、という選択肢はあってはなりません。もし、それを認めるのだとすれば、かつては仏教徒であり神社参拝をしていたわたしは決して救われなかったでしょう。誰かがわたしのために執り成していたのだと、そう信じます。

 パウロは「すべての人々のために」と言った後で、「王たちやすべての高官のためにも」と加えています。「すべての人たちのために」と言っているのですから、わざわざ「王たちや高官のために」と加える必要は、普通はないはずです。特別にこれらの人々を列挙しなければならない理由が何かあったはずです。

 「すべての」と言いながら、そこにさらに何かを加える理由として考えられることには、思いつくだけでも三つの場合があります。

 一つは、その存在があまりにも社会的に小さすぎて「すべての人々」の中に数え忘れ去られがちな存在だからです。しかし、王たちや高官たちが忘れ去られる存在とは、到底思えません。

 二つ目は、他の人々よりも抜きんでた存在で、特に自分たちの利益のために、良い関係を保つことが望まれる場合です。しかし、パウロが教会の権益を保つために、テモテに王や高官たちのために祈るようにと特別に勧めたとは思えません。

 確かにパウロはその直後に「平穏で落ち着いた生活を送るため」とは書いていますが、もし、信仰生活の安定が目的で王たちや高官たちのために祈るのだとしたら、それが「信心と品位」を伴っている行動とは言いがたいでしょう。そのために、貧しい人たちに対する祈りにまさって、王たちにために祈るのであれば、とても品位があるとは言えません。

 三つ目は、「すべての人々」の中に心理的に含めたくない場合、取り立てて、その人たちについても含めるように言及する場合があります。

 おそらく、パウロがテモテに対して、「王たちやすべての高官」を加えるように勧めたのは、そういう理由からでしょう。王や高官たちは、必ずしもキリスト教に対して好意的ではありません。保身のために動くことは世の権力者の常です。しかし、だからこそ、彼らのためにも祈る必要があります。敵対する者のためには祈らないとすれば、それこそ信仰者としての品位がありません。

 イエス・キリストがすべての人の贖い主であり、仲保者であることを信じるのであれば、そして、その福音を宣教するために建てられた者であるならば、その信仰にふさわしく、すべての人のために祈る姿勢が求められているのです。

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