ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
自分の落ち度で誰かに大きな損害を与えてしまったとき、どうふるまうか、三つのパターンがあるように思われます。一つ目のパターンは、素直に自分の非を認めて赦しを請うことです。しかし、自分が悪いとわかっていても、素直に謝ったり赦しを請うたりすることは中々できないものです。言い訳をして、少しでも自分の落ち度を小さくしようとしたり、あるいは、きっと赦してはもらえないだろうと謝るチャンスを先延ばしにしてしまったりしてしまいます。
二つ目のパターンは、相手に与えた損害を自分で償おうとすることです。もちろん、償うことのできるものであれば、そうするのが一番です。しかし、事と場合によっては、償うことすらできない損害もあります。その場合には、後悔と絶望しかありません。
三つ目のパターンは、自分のしたことがバレないように逃げ隠れすることです。しかし、生涯逃げ通せたとしても、心には平安がありません。
キリスト教が描く罪人である人間の姿は、この三つのどれかであるように思います。
しかし、その罪人に対する神の態度は、予想外のものでした。もちろん、すべてをご存じである神の前に、自分の罪を隠し通すことなどできません。しかし、すべてをご存じの上で、損害の賠償を神ご自身で償い、おまけにこちらが一言も発しないうちから、まるで久しぶりに帰ってきた実の子を迎えるように、迎え入れてくださいます。
イエス・キリストが話してくださった放蕩息子のたとえ話は、まさにそのことを示しています。父である神のお心は、子どもが家に帰ってきて、不安や怯えから解放されて、のびのびと生きることです。すべてをご存じの神が赦してくださり、わたしたちから何の賠償をも求めないのですから、これほど大きな慰めはありません。
そのことを身をもって体験したパウロの福音宣教の原点はここにあります。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 テモテへの手紙一 1章12節〜17節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
きょう取り上げた個所には、パウロの個人的な歴史が語られています。それは使徒言行録に記されている事柄とほぼ一致する内容です。つまり、神に敵対し、キリスト教会の迫害者であったパウロが、今や確信をもって福音を宣教する者に変えられているという事実です。わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン。