聖書を開こう 2019年8月22日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  パウロとテモテ(1テモテ1:1-2)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 きょうから新しい聖書の個所を取り上げます。今までマルコによる福音書を取り上げてきましたので、きょうからはテモテに宛てた手紙を少しずつ学んでいきたいと思います。

 新約聖書にはテモテに宛てた2通の手紙と、テトスに宛てた1通の手紙が収録されています。パウロが書いた個人宛ての手紙というくくりで見ると、新約聖書にはもう1通、フィレモンへの手紙があります。厳密に言うと、形式的な宛先は、フィレモン個人ではありませんが、内容的にはほとんどフィレモン一人に宛てた手紙といってもよいほどです。しかし、フィレモンは「協力者」(フィレモン1)とは呼ばれるものの、パウロと宣教の旅を共にしたテモテやテトスとは立場が異なります。内容的にも、フィレモンに宛てた手紙は、フィレモンに対するキリスト教信仰者としてのパウロの願いが綴られた、個人的な色彩の強い内容の手紙です。

 それに対して、テモテとテトスに宛てた手紙は、宛先はそれぞれ個人に宛てた手紙ですが、委ねられた任務に立つ人へ宛てた手紙という意味では、決して個人的な色彩が強い手紙ではありません。昔から、テモテに宛てた2通の手紙とテトスに宛てた1通の手紙は「牧会書簡」、つまり、牧者の手紙と呼ばれています。これらの手紙が書かれた時代の教会組織の中で、指導的な立場にある者がどのようにその務めを果たしていくか、そうした事柄がこれらの手紙の内容となっています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 テモテへの手紙一 1章1節2節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 わたしたちの救い主である神とわたしたちの希望であるキリスト・イエスによって任命され、キリスト・イエスの使徒となったパウロから、信仰によるまことの子テモテへ。父である神とわたしたちの主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和があるように。

 きょう取り上げるのは、手紙の冒頭部分です。パウロ書いたどの手紙にも、ほとんど共通している部分です。手紙の差出人、手紙に宛先、それに続いて短い挨拶の言葉が記されます。もちろん、全部の手紙が全く同じ紋切り型の表現を使って書かれているわけではありません。例えば、差出人をどう表現するかは、手紙ごとに少しずつ違っています。受取人をどう表現するかも、宛て先が違うというばかりではなく、その宛先の人たちをどういう修飾語を使って呼ぶのかも、必ずしも同じではありません。

 まず差出人から見ていきましょう。この手紙の差出人はパウロ一人です。この差出人が、他の手紙を書いた使徒パウロと同一人物であったかどうかについては、長年争われてきている問題です。ここではそうした学問上の議論に深入りしないで、この手紙が何をわたしたちに伝えようとしているのか、そのことに心を集中して読み進めていきたいと思います。

 少なくとも、あのパウロと同一人物が書いた手紙であることを前提に読まれることが、この手紙には期待されているように思われます。そのことは疑いようもありません。ですから、そのような前提に立って読んでいくことにします。

 差出人のパウロについて、この手紙でも「使徒」であることが言われています。パウロが書いた手紙の中で、あえて差出人に「使徒」という言葉を使っていないものは、フィリピの信徒への手紙とテサロニケの信徒への手紙一と二、それからフィレモンへの手紙を併せて4通です。ほかの9通の手紙は、いずれも自分が使徒であることが記されています。

 では、どういう使徒なのか、「キリスト・イエスの使徒」と自分を呼んでいます。差出人である自分を「使徒」と呼んでいる例は先ほど見たように、ここを含めて9つの手紙の中に出ています。しかし、その9通の手紙の中で、「キリスト・イエスの使徒」という呼び方は、ここを含めて6つです。

 さらに「誰がどのようにパウロを使徒に任じたのか」という点についていえば、先ほどの6つのうちの5つは、「神の御心によるキリスト・イエスの使徒」という表現を使って自分を呼びますが、このテモテへの手紙一では、「神とキリストの命令によるキリスト・イエスの使徒」という、他には見られない呼び方で自分を呼んでいます。

 些細な違いといってしまえばそれまでですが、その些細な違いの中に、著者の思いが込められていることを軽く見てはならないと思います。

 さらに言えば、パウロを命令によって使徒に任じた神とキリストについて、それぞれ、「救い主である神」「希望であるキリスト・イエス」と修飾語がついています。これも単なる飾りの言葉として読み飛ばしてしまうのではなく、自分が信じる神を手紙の著者がどう理解しているか、キリストを著者がどう見ているのか、そのように一つ一つの言葉を大事に読んでいく必要があります。

 もちろん、それぞれの表現はここにしか出てこない表現ではありません。「救い主である神」という表現はイザヤ書17章10節にもみられる旧約聖書の表現です。同様に「希望であるキリスト」という言い方は、コロサイの信徒への手紙1章27節で「キリスト」を「栄光ある希望」と呼んでいます。ただ、どちらも表現としては、聖書の中にたくさん出てくる表現ではありません。

 以上、差出人ついて見てきたことからいえば、自分を使徒パウロと名乗る点では、他の書簡と共通していますが、細かな表現を見ていくと、他のパウロ書簡には見られない独自性にも目が留まります。

 今度は受取人を見てみましょう。

 「信仰によるまことの子、テモテへ」となっています。

 パウロはテモテのことをここで「信仰によるまことの子」と、比ゆ的な表現で呼んでいます。そこには差出人と受取人の間にある信仰的な意味での深い関係性が示されています。

 「神を恐れる者」という意味を持つギリシア語名のこの人物については、使徒言行録16章に記された情報が、テモテの基本的な来歴を語っています。それによると、テモテはギリシア人を父親に、ユダヤ人を母親にもつ人物で、パウロと出会った時には、既に弟子の一人として、リストラとイコニオンの兄弟たちの間で評判の良い人物でした。その信仰の由来について、テモテへの手紙二の1章5節によれば、その信仰は、まず祖母ロイスと母エウニケに宿り、その信仰がテモテにも宿っているとパウロは確信しています。

 パウロがテモテをどれほど信頼していたのかは、二度目の伝道旅行の際に、テモテを同行したさせたことからも明らかです。さらに、パウロの書簡の中に記されるテモテについての言葉は、パウロの生の声として、パウロがどれほどテモテを信頼しているかを示しています。

 たとえば、フィリピの信徒への手紙の中で、パウロはテモテのことを「テモテのようにわたしと同じ思いを抱いて、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいないのです」と言い切っています(フィリピ2:20)。

 そういう信仰的な深い関係にあるテモテへ宛てた手紙から学びを続けようとしています。それは単に先生から弟子に送られた手紙ではありません。ともに福音のために働く若い同労者への手紙です。師であるパウロの愛と信仰とを読み取っていきたいと思います。

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