人が死を恐れる理由は、二つあると思います。一つは死後への恐れです。死後の生命を否定する人は、虚無に脅かされますし、肯定する人は死後の運命に不安を抱きます。もう一つは、死の時への恐れです。別離の悲しみと肉体の苦痛を想像して、私たちは死を恐れるのです。
ウェストミンスター小教理問答書は、「信者は死の時、キリストからどんな祝福を受けますか」という質問を設けて、答えに、死の時の祝福を並べあげています。教会は、死の時を、神の祝福のふりそそぐ恵みの瞬間ととらえているわけです。
もちろん、信者にとっても、死が苦しみと悲しみのときであることに変わりはありません。聖書によれば、殉教者ステファノの遺体を葬った信者は、「彼のために胸を打って、非常に悲しみ」ました。また、イエスは、弟子ラザロの墓の前で、「激しく感動し、また心を騒がせ、涙を流され」ました。けれども、この苦しみと悲しみの時が、同時に、信者には神の恵みを味わう時となるのです。それはちょうど、この世のさまざまな苦しみと悲しみの時、信者がそこに共におられる神の恵みを味わったのと同じです。「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。」(詩編23:4)わざわいな死の陰の谷でも、信者は孤独ではなく、主のご臨在を仰ぐことができるのです。
イエス・キリストは、十字架の死を潜り抜けて復活し、死者と生者との主となって下さいました(ローマ14:9)。この世でキリストを主とする者は、死の時にもなお、キリストが共にいまし、主となって下さる恵みを味わうのです。
この死の時に共にいまし給うキリストは、そこでどんな祝福を分け与えて下さるのでしょうか。ウェストミンスター小教理問答書はまず、「信者の魂は、死の時、全くきよくされ、直ちに栄光にはいります」と答えています。
死の時は聖化の完成の時なのです。私たちはこの世にいる限り、神と人を愛するという神からの課題に励みながら、そこからはるかに遠い者たちです。人生のゴールを目前にしててなお、このままでは到底、神の前に立てない罪人です。けれども死の時、イエス・キリストは、私たちのやり残した宿題を一挙に解決して下さって私たちの魂を全くきよめて下さるのです。
「死の瞬間にも、キリストへの信仰を保ち続けることができるだろうか」、私たちは時々、心配をします。しかし、それは無用の心配です。私たちの意識がうすれ、意志が消滅していく死の瞬間に働き給うのは、私たちではなく、キリストです。キリストがこの時立ち働いて下さって聖化の恵みをふりそそぎ、私たちを神と人への愛に満ちた全くきよい魂へと造り変えて下さるのです。
「わが生は、下手な植木師らに、あまりに夙(はや)く、手を入れられた悲しさよ!」 中原中也の「つみびとの歌」の冒頭です。
わたしたちの一生涯を、人間形成の歴史という観点からみるとき、本当に私たちは失敗者だと思います。下手な植木師のようにヘボな手を入れるたびに、私たちの性質はひね曲り、どうにも修正できないような、いやな性格をもった自分となってしまいました。
しかし、死の時まで見通して考えるならば、キリスト者の人間形成の一生は、大成功のうちに終わるのです。人間形成という人生の一大事をキリスト者は最後の最後になって達成し、すばらしい人格者となって、この世を去って神の前に出ることができるのです。
もう一つの死の時の祝福は、この世の労苦を解かれて休みが与えられることです。小教理問答書は、「信者の体は、依然としてキリストに結び付けられたまま、復活まで墓の中に休みます」と説いています。人生に疲れ自殺を一度でも考えた人は、驚くほど多くいます。この世で真剣に、自分の課題に取り組んで生きる時、これが永遠に続くならば、疲れ果ててしまうでしょう。私たちの人生が死をもって閉じられ、その走り切った人生を神の御前に差し出すことができますので、私たちは、この世にいる限り、力を尽くして走り、主の御心を行い続ける勇気が与えられるのです。
「彼らはその労苦を解かれて休み、そのわざはかれらについていく」(黙示録14:13)
私たちの人生が、死をもって閉じられる、限りある人生であること。これは、人々には恐怖であっても、キリスト者には慰めなのです。
人は自分の人生が死をもって閉じられるという、最も確実な現実を忘れて生きがちです。順境にある者はそれに酔い痴れ、逆境にある者は永遠の不幸を背負ったかのように絶望します。
「われらにおのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させて下さい」(詩編90:12)
私たちの人生がやがて神によって区切られ、神によって完成させられる人生であることを覚え、死を忘れないこうした人生こそ賢い人生なのです。
※山中雄一郎著「キリスト教信仰の祝福」小峯書店(1983年1月、現在絶版)
※月刊誌「ふくいんのなみ」1981年1〜12月号にて連載