熊田なみ子のほほえみトーク 2019年9月24日(火)放送

熊田 なみ子(スタッフ)

熊田 なみ子(スタッフ)

小さな朗読会241「神の言葉を聞く日々」
(「キリスト教信仰の祝福」山中雄一郎著)


  

 イエス・キリストを信じた人々の信仰生活を豊かで味わい深いものとしているのは、聖書です。日々聖書を読む中で、私たちは、キリスト教信仰が現実の人生に与えてくれる数々の慰めを味わうことができるのです。

 キリスト教会は、聖書を神の言葉として尊んでいます。人の心を知るにも、本人が語ってくれなければ、何も確実に知ることはできません。まして神さまの御心は、人間の推測で知り得るものではありません。聖書は、神のみこころを知らない私たちのために与えられた神の言葉なのです。キリスト教が悟りの宗教でなく啓示の宗教であるといわれるのは、このためです。

 この聖書は、キリスト教の教え(教理)形造る土台ですが、また、日々の生活の中で、私たちに直接語りかけられる神の言葉でもあります。私たちは、この神の言葉を通して、救い主キリストの恵みを受け続け、自分の生活を省み正し、生涯を終えるまで信仰を守られ、きよめられ続けるのです。

 「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。」(ヨハネ福音書5:39)ユダヤ人に対するイエス・キリストの言葉です。ユダヤ人は、聖書を神の言葉と信じ、救いに至る知識を与える書物として熱心に学びましたが、聖書全体のテーマであるイエス・キリストをとらえそこねてしまいました。テーマを把握しそこねた読書は徒労に近いものです。聖書を読む上で大事なことは、この書物を、救い主キリストに導く書物として読むことです。

 聖書は科学の書ではありません。歴史に根ざした神さまの救いのみわざを記しますが、歴史の書でもありません。救い主イエス・キリストをテーマとした救いの書です。この書物を通し日々私たちは、基督を身近に覚え、神の愛を確信して生きることができるのです。

 もちろん、聖書のテーマがキリストであるということは、聖書のどこもかしこもが、直接にキリストを語っているというわけではありません。むしろ聖書全体を統一ある一冊の書物として読む時に、その全体から、イエス・キリストという方が浮かび上がってくるのです。世界を削られた神さまの物語、神に反逆した人間の罪の物語、罪を嫌い怒られる正義の神さまの物語、それでも罪人をゆるし恵もうとする神さまの物語等々。これらすべてが織り合わさって、一つのテーマ、イエス・キリストに焦点が当てられているのです。ですから、日々聖書を読むことの中で、キリストの恵みに触れるには、聖書全体の一部としてその箇所を読むことが大切です。

 「あんなに分厚い書物全体を見通した上で、毎日読む箇所を位置づけるなんて気が遠くなりそうだ」と思われるかも知れません。便利な方法があります。キリスト教会には、長年月をかけて聖書の教えを体系化した小冊子があります。ウェストミンスター小教理問答書や、ハイデルベルク信仰問答などです。これらは、文庫本よりもはるかに小さな小冊子ですが、聖書の教え全体をバランスよくまとめあげています。教会でそれらを学びながら、聖書を読んで行くならば、聖書全体の趣旨からそれほどはずれずに、日々の箇所を読むことができるでしょう。

 私がはじめて聖書を読んだのは、中学1年生の時でした。むずかしくて歯が立たないところも数多くありましたが、深い感銘を受け、日々の生き方に影響を与えられた言葉もたくさんありました。今、牧師となって、日々聖書を調べることを仕事としていますが、わからないことだらけです。聖書には、子供にもわかる平明さと、学んでも究めつくすことのできない深さとが兼ね備わっていることを思わされます。ですから聖書は、生涯をかけて学ぶに足る書物なのです。

 聖書が生涯をかけて読み続けるべき書物であることのもうひとつの理由があります。それは聖書の読み取りが、私たちの人生経験に深く関わっているという事実です。年配の方々から、「この年になって、はじめて、この御言葉が骨身にしみる」といわれると、本当にそうだろうなと思います。けれども、反対に、中学生のころに骨身にしみた御言葉が、今では、あの時ほどではない、ということも実際にあるのです。人生のそれぞれの段階が、私たちが聖書を骨身にしみて読むかけがえのないチャンスなのです。

 子供の成長の中でも最も不思議に思えるのが言葉における成長です。文法も何も教えないのに、日々語られる内に日本語に習熟し、幼稚園の頃には、大学生が汗水たらした外国語よりも軽々と日本語を話すようになります。現実の世界に根ざした言葉の学びの効果がどれほど大きいかを思わされます。

 神の言葉の習得も同じことです。日々の現実の生活の喜びや悲しみや成功や失意の中で、その現実に関わってくるイエス・キリストの恵みを覚えつつ、神の言葉を読みつづけるとき、生きた神の言葉が、私のものとなるのです。


 ※山中雄一郎著「キリスト教信仰の祝福」小峯書店(1983年1月、現在絶版)
 ※月刊誌「ふくいんのなみ」1981年1〜12月号にて連載

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