熊田なみ子のほほえみトーク 2019年8月27日(火)放送

熊田 なみ子(スタッフ)

熊田 なみ子(スタッフ)

小さな朗読会240「礼拝の喜び」
(「キリスト教信仰の祝福」山中雄一郎著)


  

 キリスト教会では、どこでも、毎週日曜日に皆が集まって礼拝の時をもっています。日曜日がたまたま休日だからこの日に集うのではありません。日曜日は、イエス・キリストが死の力を打ち破ってよみがえられ、私たちを罪と死との力から解き放って下さった記念すべき日ですので、この日に共に集まって神に賛美と感謝をささげ、神の救いの御業のすばらしさを、聖書の言葉から学ぶのです。

 この日曜礼拝は、キリスト者の信仰生活の中でも最も重要なものです。ですから、生きたキリスト教を知りたい方は、聖書やラジオを通してだけでなく、実際にこの日曜礼拝に参加してみることが有益です。この礼拝の場で、心から神に向かって賛美の声を上げ、祈り、神の御声を聞くように聖書の言葉とその説教に耳を傾けることができた時、はじめて、本当にキリスト教を知った、ということができるのです。なぜなら、神を知るということは、神について知ることにとどまらず、神と向かい合い、神と交わることだからです。そして、この日曜礼拝の場は、神が最も明白にその御臨在を保証して下さる場だからです。「ふたりまた三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイ福音書18:20)。

 礼拝がなぜキリスト者の生活の中心なのか。それは、日曜礼拝に、人のあるべき姿、目的にかなった人のあり方が、最も集約した形であらわれるからです。

 人のおもな目的について、ウェストミンスター小教理問答は、このように要約しています。「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことである。」人生の空虚に耐えることができず、永遠なるものを求める私たちの心も、非人格化していく現代社会のしくみのなかで、人格的出合いを求める私たちの渇きも、神と出合い、神に向かうことによって根本的に解決されます。そして、この神と出会い神に向かうことの最も顕著なあらわれが、礼拝なのです。

 この礼拝では、人のおもな目的の二つが達成されます。「神の栄光をあらわすこと」(人の使命)と「神を喜ぶこと」(人の幸福)です。使命を欠いた幸福は、歓楽がそうであるようにどこか物倦い幸福です。「おもしろうて やがてかなしき」ものなのです。礼拝の喜びはそうではありません。それは、使命と幸福とがよく調和した喜びです。ですから、礼拝にただ喜びだけを求め続ける人は、礼拝の提供している真の喜びについに触れることができません。神をほめたたえ神の栄光をあらわすことを熱心に求める人が、そこで神を喜ぶ喜びを得ることができるのです。

 その逆に、喜びを欠いた使命感だけの人生も苦しくやるせないものです。私たちの礼拝が使命感・義務感だけで行われるなら、それも決して満足すべきものではありません。私たちは礼拝に喜びを求め続けることを忘れてはならないのです。

 けれども、この礼拝のことを考えるのに際しても、教会が罪ゆるされた罪人の群れであることに心を留めなければなりません。キリスト者は救われたとはいえ、なお罪にからみつかれている者たちであり、罪に対する完全な勝利がやがて与えられることを確信して、罪との戦いの途上にある者たちなのです。

 罪人であるとは、人が神によって造られた本来の目的からはずれてしまっていることを意味します。ですから、教会も罪人の群れである限り、神の栄光をあらわす点でも、神を喜ぶ点でも、多くの欠けを持っています。この欠けは、必ず礼拝に反映されます。このことに余り失望しすぎてはなりません。それは、神が私たちを瞬時にきよめる方法をとられず、全生涯にわたって私たちをきよめ完成へと導く方法をとられたことのあらわれなのです。

 それでは礼拝のすばらしさは、そこに集う人々の罪深さに応じて、みずぼらしいものになってしまうのでしょうか。決してそうではありません。礼拝は神との交わりの場です。人が神に向かうと同時に、神が人に向かって下さっているのです。たとい人は不真実でも神はいつでも真実です。どのように至らない礼拝であっても、そこには、まじりけのない純金のような神の言葉が聖書を通して与えられています。どのように至らない私たちの讃美も、神はキリストにあってゆるし受け入れて下さいます。人の側の欠けは、ここに神がいまし給うという厳粛さをそこなうことができません。私たちは、そこに神いまし給うことへのおそれをもって、礼拝に集うのです。

 知らない内はつまらないと思われた人物がつき合ってみるとぐんぐんと魅力を増して行くということはよくあります。神との交わりである礼拝もそうです。神は底知れぬ無限の魅力を持つ無限の愛の方です。今、罪に曇らされている私たちの目は、時とともに明らかにされ、やがて永遠に増し加わる喜びの中で神を直視するのです。日曜礼拝はその端緒なのです。


 ※山中雄一郎著「キリスト教信仰の祝福」小峯書店(1983年1月、現在絶版)
 ※月刊誌「ふくいんのなみ」1981年1〜12月号にて連載

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