おはようございます。南与力町教会の坂尾連太郎です。
わたしたちは生活している中で、さまざまな声が耳に聞こえてくるのだと思います。テレビやネットなどを通してたくさんの声や言葉に触れます。周りの人から語られる声もあるでしょう。また自分の心から湧き上がる声というものもあるのだと思います。わたしたちはその中の、どの声に耳を傾け、聞き従ってゆけばよいのでしょうか。
イエス様はヨハネによる福音書10章1節から6節で次のようなたとえを語っておられます。
「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」
ここに描かれているように、羊は自分の羊飼いの声をしっかりと聞き分けることができるようです。またここに出てくる「盗人」とは、具体的には当時の宗教的な指導者であったファリサイ派の人々を指しています。彼らは民の指導者として本来ならば「羊飼い、牧者」としての役割がありました。しかし彼らは羊のことよりも、自分の利益や立場のことばかりを考え、羊を傷つける「悪い羊飼い」でした。このような批判は旧約の預言者たちも行っていたことです。さらにイエス様は彼らのことをもはや「羊飼い」とも呼ばず、イエス様という門から入ってこない「盗人であり、強盗である」と批判しておられるのです。そして「盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない」と言われます。
そしてイエス様は「わたしこそ良い羊飼いである」とおっしゃいます。イエス様は「羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるため」に来てくださいました。このお方の声に聞き従い、導かれていくときに、わたしたちは豊かな命、永遠の命に与ることができるのです。そしてイエス様はご自分の羊のために命を捨ててくださる、そういう「良い羊飼い」です。狼が来ると羊を見捨てて逃げてしまうような「雇い人」とは違います。
さらにイエス様は、次のようにもおっしゃっています。
「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。」(ヨハネ10:14-15)
父なる神様と御子であるイエス様はお互いのことを良く知り、そこには愛と信頼の関係があります。それと同じように羊飼いであるイエス様と羊との間には愛があり、お互いのことをよく知っているのです。だからこそ、イエス様はご自分の羊のために命を捨てられます。
さらにイエス様は言われました。「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」(ヨハネ10:16)
イエス様は旧約における神の民であるイスラエル、ユダヤ人だけではなく、異邦人、外国人をも自分の羊として導かなければならない、とおっしゃっています。さらにまだ教会という囲いに入っていない他の羊をもイエス様は導かなければならない。そうもおっしゃっているわけです。わたしたちのために命を捨ててくださったイエス様は再び命を受けて復活し、今も生きて働いておられます。ご自分の羊の名を呼び、導こうとしておられます。そして羊はイエス様の声を聞き分けることができます。そうして一つの群れになり、イエス様がただ一人の羊飼いとなられるのです。
この世には多くの声があふれています。わたしたちはその中で、唯一の良い羊飼いであるイエス様の御声に聞き従い、永遠の命、豊かな命に生かされてゆきたいと願います。