おはようございます。清和女子中高の小西です。
デンマークの作家、イサク・ディーネセンの作品に「バベットの晩餐会」があります。映画になって、アカデミー賞の外国映画賞を取りました。
物語の舞台は北欧の国、ノルウェーの小さな町です。そこにマチーヌとフィリッパという年老いた姉妹が住んでいました。彼女たちの亡くなった父親は、厳格な牧師でした。おいしいものを食べること、おしゃれをすることが人を堕落させると考えていました。厳しさの中で育った姉妹は、当然のように質素な生活をしてきました。
その姉妹のところに、フランスの知り合いから一人の女性を使用人として雇ってほしいとの手紙が届きます。ほどなくしてやってきたのがバベットでした。姉妹は、パリ育ちの女性が作る料理にはお金がかかるだろう、掃除洗濯はできるだろうかと心配でした。
それは取り越し苦労でした。バベットは姉妹たちの指示に従って、質素な食事を、長年作り続けてきたように作ることができたのです。買い物する際には、片言のノルウェー語にもかかわらず、上手に値切ります。食事はとてもおいしく、しかも材料費は今までよりもかなり安いのです。
それもそのはずです。バベットはパリの有名なレストランのシェフでした。
バベットが姉妹の家にやってきて14年目のことです。彼女あてに一通の手紙が届きます。それはパリに住む古い友人からで、バベットはパリを逃げ出した後も、その友人に宝くじを買ってもらっていて、手紙は宝くじで1万フランが当たったとの知らせでした。今のお金に換算すると1千万円ぐらいだそうです。宝くじに当たって以降、バベットはしきりに何かを考えているようでした。
ある日、姉妹に一つの申し出をします。それは姉妹の父親であった牧師の生誕100年を祝う晩餐会を催すことで、その食事を自分に作らせてほしいということでした。姉妹は考えました。バベットはこれまで世話になった自分たちや町の人たちにお礼をするのだろう、そしてこの町から去っていくのだろう。
やがて招待された12人の晩餐会が始まりました。姉妹の父親であった牧師のもとで育った人たちは、ごちそうは人を堕落させると信じていました。それでできるだけ味わわないように無表情で食べることにしました。けれど、一口食べたその瞬間、その決心は吹き飛びます。みんなの顔がパッと明るくなり、会話がどんどん弾みます。そして一口も残すまいと、次々に料理をたいらげていきます。こうして晩餐会は喜びのうちに終わります。
これからどこへ行くのか、と尋ねた姉妹に、バベットは不思議そうな顔をしました。バベットは1万フランを晩餐会のためにすべて使い切ったので、どこにも行けないというのです。姉妹はびっくりして、なぜそこまで自分たちや町の人たちのためにごちそうしてくれたのかと尋ねます。するとバベットは答えました。
「晩餐会は自分のためにした。自分は料理を作る芸術家だ。優れた芸術家は自分に与えられた才能を発揮するために、最善の努力をするものであり、そういう機会が与えられることを何より望む。自分は1万フランによって料理の才能を発揮する機会を与えられた。その料理を食べた12人が心から喜んでくれた。幸せな気持ちで帰っていった。これほど幸せなことはない。感謝したいのは自分のほうだ。」
偉大な芸術家はたくさんいます。ミケランジェロ、ダ・ヴィンチ、ピカソ。音楽でいえばバッハ、ベートーベン、モーツァルト。そこで気づかされるのは、偉大な芸術家たちも私たちと同じように、つくられた存在なのだということです。それをつくったのはきょうの聖書(創1:27)によれば、神様です。世界で最も優れた芸術家は神様であり、私たちは神様によってつくられた作品なのです。
その作品の役割、つまり私たちの生きる意味と目的は何でしょうか。それは見る者、聴く者、味わう者の気持ちを明るくすることです。作品に接したその人が傷を癒し、絶望や失望から脱するきっかけを作ることです。そのように考える時、神様の作品である自分の存在の意味と役割が何かがわかってきます。
私たちの大きな使命は、他者の生きる希望となることです。そのことにしっかり気づくなら、何でもないように思える今日という一日が、かけがえのないものになります。