おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
旧約聖書の最初に置かれた『創世記』には、天地創造と人間の起源の話、そして、その人間が蛇の誘惑を受けて堕落してしまう話が記されています。蛇が人間を誘惑すると聞けば、ばかばかしいと感じるかもしれません。しかし、ここには聖書が語る人類の悲惨と救いに関して、避けて通ることができない真理が語られています。
創世記は人間を堕落へと誘った張本人を蛇であったと記し、その蛇は野の生き物の中で、もっとも賢かったと描いています。聖書の一番最後の書物『ヨハネの黙示録』の中で、初めて蛇の正体がサタンであることが明かされます(黙示録20:2参照)。しかし何故、サタンが人間を誘惑したのか、そして何故、神は人間が誘惑されることをお許しになったのか、私たちが知りたいと思うことには、一切触れられていません。そこが聖書のもどかしさであるかもしれません。しかし、聖書がもっとも関心をもって伝えようとしていることを、まず読んで知ることが大切です。
蛇はアダムではなくエバから誘惑を始めます。神からの命令を直接聞いたアダムではなく、間接的にしか聞いていないエバを狙ったところに、蛇の狡猾さがあります。しかも、蛇が投げかける質問は巧妙です。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」(創3:1)
まったくナンセンスな問いかけです。神はエデンの園のどの木からでも自由に取って食べることをお許しになっていました。ただ一つだけ禁じられたのは、園の中央に生えた善悪の知識の木から取って食べることだけでした。しかし、敢えてこう質問したのには、蛇のずる賢さがありました。それは、どの木から取って食べてもよいのであれば、なぜ、神は一つだけ例外を設けられたのか、そこに疑問を抱かせるためでした。
エバの答えは、一見完璧なようですが、見事に蛇の思うつぼにはまっています。神が善悪の知識の木から取って食べるのを禁じられたのは、それを食べるならば「必ず死ぬ」からです。エバの答えは曖昧です。「必ず死ぬ」ではなく「死んではいけないから」と禁止の理由が変えられます。「必ず死ぬ」と「死んではいけないから」とでは、似ているようで違います。たとえば、「赤信号では止まりましょう。そうでないと必ず事故が起こります。」というのと「事故が起こるといけないので、赤信号では止まりましょう。」とでは、受ける印象が全然違います。それなら、事故が起こらないように気を付ければ、赤信号を無視しても大丈夫という解釈も成り立ってしまいます。
蛇は間髪入れずに「決して死ぬことはない。」と言って、禁止命令を破ったとしても大丈夫であることをアピールします。しかも、何故大丈夫なのかという理由を、まるで神にとって不都合なことが起こるからだと言わんばかりのように説明します。「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」(創3:4)こう蛇に説明をされて、改めて園の中央に生えている木の実を見ると、触れてもいけないと感じていた木が、むしろ食べるのに好ましいと感じられてきたのですから不思議です。
神の言葉である聖書を曖昧に理解して読むときに、私たちがどれほど誘惑にさらされやすいか、しかも真逆な結論に導かれやすいか、そのことをこの物語は示しているように思います。