いかがお過ごしですか。新座志木教会の杉山です。
ルカによる福音書に、一人の金持ちと、貧しいラザロという人が登場するたとえ話があります(16:19-31参照)。金持ちの男は贅沢な服を着て贅沢に遊び歩いて人生を過ごし、やがて死んで立派な墓に葬られます。一方、ラザロという男は全身皮膚病に侵されて食べるものもなく、金持ちの家の前に置いたままにされ、たまにありつく残飯で命をつなぎ、ほどなくして死んでしまいます。しかし、ラザロは死んだあと天使によって天国のアブラハムの隣に座らされ、金持ちの男は燃え盛る火のそばに座らされます。
あまりの暑さに苦しんでいたところ、遠くに天国の様子が見えた、と聖書は続いています。その時、この金持ちの男の放った言葉について私たちはよく考えてみたいのです。彼は、天国のアブラハムに向かって呼び掛けています。「父アブラハムよ、私を憐れんでください。」(16:24)
この言葉は二重の意味で大切です。一つは、ここには全く遊びの要素がないということです。金持ちにとっては人生の日々はただ面白おかしく過ごす以上のものではありませんでした。おそらく金持ちの男はこの時初めて真剣に腹の底から叫び声を出したのです。
しかし、さらに重要なのは呼びかけの言葉そのものです。「父アブラハム」。
アブラハムこそはすべて神を信じる者の父でした。自分も信仰の父につながるものだ、だから父に願ってよい、いや願うべきだと初めてこの金持ちの男は気が付いたのです。もちろん、これは譬えです。それは、真剣に生きることを問う譬えです。