いかがお過ごしですか?川越教会の木村恭子です。
今週は、私の大好きな小説「赤毛のアン」から、心に残るエピソードをご紹介しています。
マシュウとマリラは、孤児院からアンを家族として迎えました。アンは、男の子を望んでいたのに、間違って送られてきた女の子でした。ですが、二人はアンが神を知らず、また家族の愛に飢えていることを知って、彼女を引き取りました。マリラは苦労を背負い込む覚悟で、割当てとして引き受けたのです。けれど、アンが家族に加えられたことで生活に喜びと活気が与えられました。
「あの子はわしらにとっては祝福だ。…運がよかったんだな。いや、そんなものじゃない、神さまの思召(おぼしめ)しだ。あの子がわしらに入用だってことを神様はごらんになったからだと思うよ。」晩年のマシュウの言葉です。
マリラにもアンは大きな支えとなりました。「アン。あんたがいなければ、私は全く途方くれていたよ。…あんたはわたしの喜びであり心の慰めだよ。」兄に先立たれた後のマリラの言葉です。
神からの割当ては、苦労や困難を伴うこともあります。しかし、一つ一つに意味があります。まだ同時に、その割当てをやり遂げるために神の助けもあるのです。
聖書の言葉「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」(1ペトロ5:7)
(『赤毛のアン』モンゴメリ著 村岡花子訳 新潮文庫より)