いかがお過ごしですか?川越教会の木村恭子です。
今週は、私の大好きな小説「赤毛のアン」から、心に残るエピソードをご紹介しています。
アンは、マシュウの仕事を手伝う男の子が欲しかったのに、間違って連れて来られた女の子でした。それで最初はアンを孤児院へ返そうとしますが、やがて育てる決心をします。「だれかが、あの子をひきとって、ものごとを教えてやらなけりゃなりませんよ。まったくあの子は…今までお祈りをしたことがないなんて信じられますかね。…でも世の中をわたって行くにはそれぞれ、割当てられた苦労をしなくちゃならないんだからね。」マリラの言葉です。アンを育てることが、今、神から自分に与えられた割当て、役割だと言っているのです。
私たちの人生にも、神のご計画があり、割当てがあります。このように、自分の現状を神との関係で考え、分析し、選び取っていくことで、私たちはそこに、生きる価値と喜びを見出すことができるのだと思います。たとえ、それがどんなに小さな役割であったとしても。
パウロは自分の人生の割当て、役割について、こんな言葉を記しています。
聖書の言葉「どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。」(フィリピ1:20)
(『赤毛のアン』モンゴメリ著 村岡花子訳 新潮文庫より)