いかがお過ごしでしょうか。国立聖書教会の野島邦夫です。
今週はイエス・キリストの「山上の説教」を学んでいます。とても有名ですが誤解も多い。これを語るのはイエス・キリストということを忘れると、喜びの福音の言葉ではなく、厳しい命令の言葉になります。
例えば「敵を愛し、迫害する者のために祈れ。」マタイによる福音書5章44節。
キリスト教の愛とは好き嫌いのことではなく、相手のために自分のものを使うこと、自分のためではなく隣人のためという態度です。相手が嫌いな人でも助ける。そうなら、その頂点は「敵を愛する」です。理屈はそうでも、誰がそんなことができるでしょうか?いったい誰が人にそう命令できるでしょうか?
私たち自身にはとても言えません。自分に向けて言えば自分を欺くだけ、他人に向けて言えば私たちは偽善者です。では聖なる神が言えば?神には言う資格があります。しかし、私たちに向けられて語られる時、その言葉は私たちから祝福を奪い、絶望させるだけです。
イエス・キリストが語られる時、この言葉の内実が全く変わります。キリストは生涯この愛を貫かれ、最後十字架の上で、自分を殺そうとしている敵たちのために「天の父なる神よ、彼らをお赦しください。」と祈られました。キリストだけがこの言葉を自分のこととして言うことができます。そしてこのメッセージを聞き取る者に、ご自分の愛を分け与えられます。