いかがお過ごしでしょうか。国立聖書教会の野島邦夫です。
今週は、イエス・キリストの「山上の説教」を学んでいます。とても有名ですが、同時にその意味がよく誤解されます。その典型が、これは実行不可能な厳しい道徳的教えだという誤解です。語られたのはイエス・キリストだということを忘れた誤解です。
ではイエス・キリストが語られる時「山上の説教」はどのような力を持つのでしょうか。例えば、「心の清い人は幸いである。」マタイによる福音書5章8節。
「心が清い」と聞けば、心が透き通っていて純真無垢と言うようなイメージを持たれるでしょう。聖書ではもっと具体的で、自己中心的ではなく、いつも他人を思いやり他人に手を差し伸べる、つまり愛に満ちていることです。マザー・テレサのようにです。ではあなたはと問われて、はい!とは言いにくいでしょう。
ここです。私たちには「心の清い人は幸いである。その人は神の祝福を受ける。」を自分の言葉としては言えません。言えば自分を裁くだけです。聖なる神には言えます。しかし神が言われたら人はやはり裁かれるだけです。
では、イエス・キリストが言われたら?彼は愛の人でしたから、幸いな人です。神の祝福を受けました。しかも彼はその祝福を私たちに分け与えるためにこの世界に来られました。イエスは言われます。「これを聞く者たちよ、私のところに来なさい、祝福を分け与えよう。」