ごきげんいかがですか。東川口教会の櫻井良一です。
ある学校で教師と生徒の保護者の集まりが開催されました。生徒たちによい教育をするためにはどうしたらよいのか、というテーマを話し合うためです。その話し合いはいつの間にか険悪なムードになっていきます。なぜなら保護者たちが「結局、生徒が問題を起こすのは、最近の教師の教え方が悪いからだ。」と言い出したからです。
教師たちもこの言葉を黙って聞き逃すことができません。そして「いえ、子どもたちの問題は、たいていその家庭の教育が原因なのです。」と言い出したのです。生徒に問題があるのは教師の教え方のせいか、それとも家庭での教育が原因なのかということで、教師と保護者は互いにその主張を譲ることができなくなってしまったのです。
結局この話し合い、「生徒の問題は、現代の教育制度を作った政府が悪いからだ。」というところで一致して終わりました。しかし、これで本当に子どもたちの問題は解決したのでしょうか。
聖書にも同じような話が登場します。生まれつき目の見えない人は「本人のせいか、それともその両親のせいでそうなってしまったのか」という議論が記されているのです。しかし意味のない責任者追及をしようとする人々と違い、イエスは全く違った答えを私たちに語っています。
聖書の言葉「イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。』」ヨハネによる福音書9章3節