山下 正雄(ラジオ牧師)
メッセージ:見分ける力は、どこから来るのか(マタイによる福音書24:32-35)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
今の時代、毎日、膨大な情報の中でさまざまな「判断」を迫られています。スマホでお天気アプリを開けば、雨雲の動きがすぐにわかります。株価の動きを読もうと、専門家の分析に耳を傾ける方もおられるでしょう。あるいは職場では「空気を読む力」が大切だと言われ、時代の流行に敏感であることが評価されることもあります。現代に生きる私たちは、さまざまな情報を手がかりに、物事を「見分ける力」を日々鍛えられているように見えます。
しかし、ふと立ち止まって考えてみると、本当に大切なことほど、見誤ってしまうことがあるように思います。人生の方向性、何を信じて生きるか、何に価値を置くのか。そういった根本的な問いになると、私たちはしばしば迷い、揺れ動いてしまいます。「何を見れば、本当に正しく見分けられるのか」。これは、とても深い問いです。
イエス・キリストもまた、「見分けること」について語られました。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書24章32節~35節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらすべてのことを見たなら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」
今私たちが連続して学んでいるマタイによる福音書の24章には、世の終わりに起こるべきことについて、イエス・キリストがお語りにおなった一連の教えが記されています。そこにはこれから起こる戦争、飢饉、地震、そして偽預言者の出現など、世界が混乱に陥ることが予告されています。そのような重い言葉が続く中、イエスは突然、身近な自然のたとえに目を向けられます。
「いちじくの木から教えを学びなさい」
イエスはここに限らず、日常の観察から真理を学ぶようにと教えてこられました。難しい神学論議ではなく、誰もが経験できる自然の変化や営みの中に、大切な洞察が込められています。
いちじくの木は、パレスチナの地に古くから親しまれてきた木です。冬の間は葉を落とし、枯れ木のように見えます。しかし春が来ると、枝が柔らかくなり、みずみずしい葉が芽吹き始めます。それを見た人は誰でも、「ああ、夏が近い」と分かります。特別な気象学の知識も、高価な観測機器も必要ありません。自然の変化に目を向け、それを正しく結びつけることで、時を読むことができる、とイエスは指摘しておられます。
「見分ける力」とは、特別な才能や卓越した知性のことではありません。日々の変化に丁寧に目を向け、それを正しく意味づけることのできる、地に足のついた洞察のことです。イエスは、この自然から得る知識と同じように、神の時のしるしも「見分けることができる」とおっしゃっています。
「これらすべてのことを見たなら」とは、それまでに語ってこられた混乱や苦難のしるしを見たときのことを指しておられます。これらすべての予兆を見たとき、わたしたちに求められていることは、ただ恐れ慄くことではありません。「神の国が近づいている」という約束と結びつけることが大切です。それが、クリスチャンの持つべき「見分ける力」です。
見分ける力とは、単に出来事をたくさん知っていることではありません。どれほど多くの情報を持っていても、それを正しく結びつけることができなければ、本当の意味で理解したことにはなりません。
イエスはさらに、こうお語りになりました。
「はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。」
「この時代」とは何を指すのかについては、さまざまな理解があります。当時の弟子たちの世代を指すという見方もあれば、神を拒む人間のありようを指すという見方もあります。しかし、ここでイエスが最も強調したかったのは、時間を特定したりや計算したりすることはありません。そうではなく、ここでイエスが強調しておられるのは、「神の計画は確実に実現する」ということです。
だからこそ、イエスは続けてこうもおっしゃいました。
「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」
「神が語られたことは確実に実現する」という揺るぎない保証です。天と地、この宇宙全体が消えうせるような時が来ても、イエスの言葉は失われることがありません。これは単なる予言ではありません。神の言葉の永遠性、その絶対的な信頼性についての宣言です。
つまり、本当に信頼に足る「見分ける基準」とは、目に見える現象や時代の雰囲気だけではありません。移り変わる出来事の背後に、変わることのないイエスの言葉があります。この言葉こそが、物事を正しく見分けるための、確かな軸なのです。
現代は、かつてないほど情報があふれる時代です。SNSには次々と新しい声が流れ込み、ニュースは刻一刻と変わります。専門家の意見も一致せず、何が正しいのか分からなくなってしまう時があります。そのような状況の中で、表面的な出来事だけを手がかりに判断しようとすると、私たちは簡単に振り回されてしまいます。
イエスのたとえが問いかけているのは、「何を見るか」以上に「どの言葉を土台にするか」という問いです。いちじくの枝の変化を見る目は大切です。しかし同時に、「枝が柔らかくなれば夏が来る」という自然の秩序への理解があってこそ、その観察は意味を持ちます。日々の出来事を見る目と、それを正しく意味づけるイエスの言葉への信頼。この両方が必要なのです。
イエスの言葉は、時代が変わっても変わりません。二千年前にパレスチナで語られた言葉が、今日の私たちの心にも届き、力と光を与え続けています。聖書の言葉に耳を傾けるとき、同じ出来事でも見え方が変わってくることを、多くの人が経験してきました。「困難の中でも希望を失わなかったのは、聖書の言葉があったから」…そのような証しは、時代や文化を超えて語り継がれてきました。
将来への不安や人間関係の難しさ、社会の先行きの見えにくさ、そのような中でも、変わらない言葉の光の中に立つとき、確かな視点が与えられます。神の言葉は私たちを根底から支えます。見分ける力は、情報量の多さや経験の豊かさだけから生まれるのではありません。静かに聖書の言葉に親しむ歩みの中で、少しずつ養われていきます。
私たちは日々、何かを手がかりに判断し、選択しながら生きています。いちじくの枝を見て夏を知るように、日常の出来事の中にしるしを見つけようとします。それは大切なことです。
しかしイエスは、「しるしを見なさい」と語られると同時に、「わたしの言葉は決して滅びない」とおっしゃいました。見分ける力は、最終的に「何に信頼するか」にかかっています。変わりゆく時代の波の中で、変わることのないイエスの言葉に立つ歩みへと、あなたも招かれているのです。









