聖書を開こう

偉くなりたい心への、イエスの逆説(マタイによる福音書23:1–12)

放送日
2026年2月5日(木)
お話し
山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:偉くなりたい心への、イエスの逆説(マタイによる福音書23:1–12)


 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「評価されたい」「認められたい」という願いは、誰もが持っている感情だと思います。たとえば、SNSでの「いいね」の数が気にな人もいるかもしれません。あるいは、肩書きや役職の中で「一目置かれたい」と思ったことがある方もいるのではないでしょうか。そのような「見える評価」の中で、誰かに自分を認めてほしい、という思いは、現代に限らず、いつの時代にも、人間の心の中にある自然な願いだと思います。

 「上に立ちたい」「重んじられたい」という思いは、決して特別な人だけのものではありません。あなたも私もその中に含まれています。そして、イエスは、まさにその人間のごく自然な心に向かって、驚くべき言葉を語られました。

 「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい」(マタイ23:11)

 この言葉は、単なるきれい事の道徳論なのでしょうか。それとも、私たちの現実を根底から覆す真理なのでしょうか。イエスが語られた「逆説」の核心に迫ってみたいと思います。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書23章1節~12節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

 マタイによる福音書23章は、イエスが宗教指導者たちを厳しく非難する場面として知られています。しかし、ここで大切なのは、イエスが誰に向かって、どのような思いで語っておられるかという点です。

 1節を見ると、イエスは「群衆と弟子たちに」語りかけられました。つまり、これは単に特定の相手を攻撃するための非難ではなく、主に従おうとするすべての人への「警告」であることがわかります。

 直前の21章から22章にかけて、イエスは神殿で律法学者やファリサイ派の人々と激しい論争を繰り広げてこられました。彼らは「正しさ」を語り、神の律法を熟知していましたが、その心は神から遠く離れ、自らの権威を守ることに汲々としていました。

 イエスは、律法学者やファリサイ派の人々が教える「律法」そのものを否定はしませんでした。「彼らが言うことは、すべて行い、守りなさい」とさえ言われています。問題は、彼らの「語ること」と「生き方」が一致していないことにありました。イエスの激しい言葉の裏には、神の民のリーダーたちが道を誤り、人々を迷わせていることへの、深い悲しみと危惧感が溢れています。

 では、具体的にどのような点が問題だったのでしょうか。イエスは二つのポイントで指摘されます。

 第一にイエスが指摘されたのは、言葉と行動の大きな矛盾でした。

 「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない」(マタイ23:4)

 本来、信仰とは人を自由にし、魂に安らぎを与えるものです。しかし、当時の指導者たちは律法を細かな規則に変え、人々の肩に「重荷」として載せてしまいました。権威が「人を助け、仕えるため」ではなく、人を裁き、「支配するため」の道具になっていました。

 次に、イエスが指摘されたのは、信仰の外見への執着でした。

 「そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする」(マタイ23:5)

 経札や衣の房はもともと、神の言葉を常に心に刻むためのしるしでした。申命記の教えに基づき、神の命令を忘れないようにするためのものでした(申命記6:8、22:12。民数記15:38-39参照)。しかしそれが、自分の信仰を「見せる」ためのものに変質していきました。信仰そのものが、演じるものに変わってしましました。

 宴会の上座、会堂の特等席、広場での挨拶……。彼らは「先生(ラビ)」と呼ばれ、特別な存在として扱われることに執着しました。役割としての指導者ではなく、称号によって得られる優越感こそが、彼らの報酬になっていたのです。

 こうした現実に対し、イエスは弟子たちに全く異なる生き方を提示されます。

 「あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。」(マタイ23:8)

 ここでイエスは、人間の「偉くなりたい」というエネルギーそのものを否定しているのではありません。その「向き」を180度ひっくり返そうとしておられます。

 「あなたがたのうちでいちばん偉い者は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(マタイ23:11-12)

 これは、単なる謙遜のすすめではありません。神の前で「最も偉い」とされる道は、人の前で「最も低く、仕える者」となる道とつながっているという、神の国の基本原理です。そして何より、この言葉はイエスご自身の生き方そのものを表しています。全宇宙の主であられる方が、最も低いところへ降り、最後には十字架で命を捨てるまで仕え抜かれました。このイエスの歩みこそが、逆説の完全な形です。

 さて、このイエスの言葉を、現代の私たちはどう受け止めるべきでしょうか。

 「ファリサイ派の人々はひどい連中だ」と他人事のように思うことは簡単です。しかし、私たちの心の中にも、彼らと同じ性質が潜んではいないでしょうか。

 自分勝手な正しさで誰かを密かに裁いてはいないでしょうか。ボランティアや善い行いをしていても、心のどこかで「誰かに気づいてほしい、評価してほしい」と願ってはいないでしょうか。SNSの反応に一喜一憂し、自分の「立ち位置」を気にして疲弊してはいないでしょうか。

 ここで問われているのは、「あなたがどのような肩書きを持っているか」ではありません。「あなたが誰のために、どのように生きているか」という一点です。

 イエスに従うということは、周囲からの「評価」という名の報酬を集める生き方から、目の前の一人を生かすために、静かに自分を差し出す生き方へと、人生の舵を切ることです。

 もし、あなたが自分の権利を主張する代わりに、誰かの重荷をそっと支えているなら、世の中はそれを「損な生き方」と呼ぶかもしれません。しかし、天の父は、その姿を「最も偉い者」として見つめておられます。

 「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(マタイ23:12)

 この言葉は、私たちに対する脅しではありません。神の国の確かな現実として語られたものです。

 誰かと比べなくてもいい。仕えるところに、すでに神のまなざしが注がれています。イエスご自身がその道を先に歩んで示してくだいました。低くなられた主に続いて歩むこと、ここにこそ、まことの自由があります。イエスの逆説は、きれい事ではなく、神の国の現実そのものなのです。

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