聖書を開こう

神の恵みは計算外(マタイ120:1-16)

放送日
2025年11月6日(木)
お話し
山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:神の恵みは計算外(マタイ120:1-16)


 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 子供のころ「ずるい」という言葉を思わず口にしたことはありませんか。同じお手伝いをしたのに、弟ばかり褒められたりすると、つい「ずるい」という言葉が口をついて出て来てしまいます。

 あるいはこんな経験をしたことがある人もいるかもしれません。遅刻してきて、ろくにお手伝いもできなかったのに、他のみんなと同じように感謝されて、なんだか得したような、申し訳ないような、そんな気持ちを味わったことがある人もいるでしょう。

 世の中の常識からいえば、同じだけ働けば同じだけ報酬がもらえ、少ししか働かなければ、少ししかもらえません。

 きょう取り上げるイエス・キリストのたとえ話の中では、この常識を覆すようなことが語られています。どの立場で話を聞くかで、「ずるい話」のようにも聞こえますし、「得した話」のようにも聞こえます。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書20章1節~16節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

 今取り上げた箇所は、イエスが語られた「ぶどう園の労働者」のたとえです。

 当時、1デナリオンは成人男性が夜明けから夕方まで1日働いて得る標準的な賃金でした。ですから、主人の申し出はごく妥当なものでした。

 ところが、主人は夜明けに働く人を探しに行っただけでは終わりません。午前9時、正午、午後3時、そしてなんと午後5時にも広場に出かけ、まだ仕事を見つけていない人たちを雇いました。午後5時といえば、終業時間まで残りわずか1時間ほどです。普通なら、そんな時間から働かせても意味がありません。

 しかし主人は言います。「あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう」と。こうなると、労働不足を補うために人を雇っているというよりは、失業してその日の暮らしに困っている人を助けるための慈善事業のようにも思えます。

 夕方になり、労働の1日が終わります。主人は監督に命じました。「最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい。」

 そして驚くことが起こります。午後5時に来た人たちが1デナリオンを受け取りました。たった1時間しか働かなかった人たちが、朝から汗だくで働いた人たちと同じ賃金をもらったのです。

 これを見た朝からの労働者たちは、当然のように「自分たちはもっともらえる」と期待します。ところが、彼らも最初に約束された通りの賃金1デナリオンを受け取っただけでした。

 最初から働いてきた者たちの 不満の声が漏れるのは当然のように思えます。

 それに対して主人はこう答えました。

「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」

 このたとえ話を聞いて、私たちはつい「労働条件」や「賃金の公平性」といった観点で考えてしまいます。

しかし、イエスの関心はそこではありません。

 イエスが語ろうとされたのは、神の国の恵みは人間の計算とはまったく違うということです。

 マタイによる福音書の19章の最後を思い出してください。ペトロがイエスにこう尋ねています。

 「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」(19:27)

ペトロの心には「報酬」の計算がありました。

 それに対してイエスは、確かに彼らには報いがあると約束しながらも、「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」とおっしゃいました(19:30)。

 イエスの語る「天の国」は、人間の功績によって順位づけされる世界ではありません。神の恵みは、長く仕えた者にも、最後の瞬間に呼ばれた者にも、同じように注がれる。人間の「計算」ではなく、神の「恵み」が中心にある世界。それが天の国の現実です。

 神は朝早くから晩まで、人々をこのぶどう園に招かれています。ある人は幼いころから教会に育ち、信仰の道を歩み続けています。またある人は人生の後半になって、やっと神の招きを受け入れます。それでも神は、最後に呼ばれた者にも惜しみなく恵みを注がれます。

 このことは、私たち人間の価値観とはあまりに違うために、ときに受け入れがたいもののように思えます。しかし神は、計算ではなく、愛によって報いを与えられるお方です。

 このたとえの最後に、イエスはもう一度こうおっしゃいました。

 「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」(20:16)

 これは単なる逆転劇ではありません。神の恵みの世界は、「順番」や「功績」という人間の秤が通用しないという意味です。誰がどれだけ長く働いたかではなく、神がどれほど恵み深くあるかがすべてです。

 私たちはつい、「長く信仰を持っているから」「多く奉仕をしているから」「たくさん献金しているから」と、自分を他人と比べてしまいます。それぞれの人生の時に応じて、神の呼びかけがなされ、恵みは与えられます。

 朝から働いた人たちが腹を立てたのは、賃金の額ではありません。彼らは主人が他の人にも同じように与えた「恵み」に腹を立てたのです。つまり彼らの心には「ねたみ」がありました。

 ねたみは、神の恵みを見えなくします。

 もし私たちが他人の祝福をねたむなら、神が自分にも与えてくださっている恵みを見失ってしまいます。

 考えてもみれば、朝から雇われた人たちは、最初から安心して働けました。誰も雇ってくれないまま夕方を迎えた人たちの不安を、彼らは知りません。「働く場が与えられている」ということ自体が、すでに大きな恵みなのです。

 きょうも、神はあなたをぶどう園に招いておられます。働きの量ではなく、神の愛を信じてその招きに応えてください。「神の恵みは計算外」です。その驚きと感謝の中で、あなたの一日が祝福に満たされますように。

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