山下 正雄(ラジオ牧師)
メッセージ:すべてを捨てた者への約束(マタイによる福音書19:27-30)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
仕事で頑張っても評価されない。家族のために尽くしても、感謝の言葉もない。あるいは、信仰生活の中で人知れず犠牲を払っているのに、誰も理解してくれない。そんな思いを抱えた経験がある人は少なくないでしょう。
ペトロも、まさにそのような気持ちを抱いていたのかもしれません。ペトロある日、イエスにこう尋ねました。
「見てください。わたしたちは何もかも捨ててあなたに従ってまいりました。では、わたしたちは何をいただくのでしょうか。」(マタイ19章27節)
この言葉には、どこか人間らしい率直さがにじみ出ています。ペトロは自分の選択に後悔していたわけではありません。しかし、「この道を歩んで、本当に意味があるのか」「主に従う人生には、どんな報いがあるのか」。そんな率直な問いが、ペトロの心に浮かんだのでしょう。
イエスは、このペトロの問いに、非常に豊かで力強い約束をもって応えられました。きょうは、この言葉を通して、「すべてを捨てて主に従う者に与えられる約束」をご一緒に見つめていきたいと思います。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書19章27節~30節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
すると、ペトロがイエスに言った。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」イエスは一同に言われた。「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」
ペトロの質問の背景には、一つの出来事がありました。それは「富める青年」とイエスの出会いです(マタイ19章16~22節)。
その青年は、永遠の命を求めながらも、イエスの教えを受け入れることができず、結局イエスのもとを悲しみながら去っていきました。というのも、その青年は多くの財産を持っていたために、自分自身を神に明け渡すことができなかったからです。
それを見たイエスは弟子たちにこうおっしゃいました。
「金持ちが天の国に入るのは難しい。……金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい。」
この言葉に弟子たちは驚き、「それでは、いったいだれが救われるのだろうか」と戸惑いました。人々が「祝福」と見なしていた富が、かえって神の国への妨げになる。そんな逆転の真理を、イエスが語られたからです。
この時、ペトロの胸にはある思いがよぎりました。
「金持ちでさえ救われないなら、すべてを捨てた自分たちはどうなるのか。」
ペトロたちは漁師の仕事を捨て、家族を置いてイエスに従いました。あの時、ガリラヤ湖の岸辺で網を放り出してイエスの呼びかけに応えた瞬間、彼らは人生のすべてを懸けました。
それなのに、富める青年の悲しい結末を見て、ペトロは思わずこう口にしました。
「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」
この言葉には、ほんの少しの不安と、報われたいという素直な願いが込められています。しかしイエスは、そのようなペトロの弱さを責めることはなさいませんでした。むしろペトロの問いに、確かな希望の約束をもって応えられます。
イエスはおっしゃいます。
「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」
ここで語られている「新しい世界」とは、終末の完成の時、神の国が完全に実現する時を指しています。その時、イエスは「栄光の座」に着き、弟子たちもまた栄光にあずかると約束されました。
ペトロたちが体験した苦労や犠牲は、決して無駄ではない。やがて神の国が完成する時、弟子たちはイエスとともに栄光の座に連なり、神の働きに参与する。それが、主の約束でした。
この約束は弟子たちだけに限られていません。イエスはさらに続けておっしゃいました。
「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。」
ここに、信仰に生きるすべての者への約束があります。主のために何かを失った者には、主が何倍にもして報いてくださる。そして最終的に「永遠の命」という最高の報いが与えられる、と。
では、イエスが言われた「百倍の報い」とは、いったい何でしょうか。単に、地上での繁栄や成功を意味しているわけではありません。むしろそれは、神の家族の中で与えられる豊かな交わりを指しています。
キリストに従うために、家族や友を失った人も、教会の中で新しい家族を得ます。愛と信頼で結ばれた兄弟姉妹が与えられます。また、富や安全を手放した人にも、神の守りと慰めが与えられます。それは単なる「代償」ではなく、神ご自身との新しい関係の中で経験する祝福です。
マルコによる福音書では、この約束に次のような言葉が加えられています。
「今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。」(マルコ10:30)
ここには重要なことが示されています。主に従う道は、苦難と栄光が共にある道です。迫害を受けながらも、神の恵みはなおも溢れるほど与えられる道です。
イエスは最後にこう言われました。
「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」
これは、人間の価値観がひっくり返されるということです。この世では、成功した人、富を持つ人、地位を得た人が「先」に見えます。けれども神の国では、見かけの優劣や功績ではなく、どれだけ神に信頼して歩んできたかかが問われます。
富める青年は多くを持っていながら、結局はイエスに従うことができませんでした。一方、すべてを捨てて従った弟子たちは、神の国で豊かな報いを受けます。この逆転の真理は、神の恵みが人間の努力や資格によらないことを示しています。神の国の報いは、ただ主に従う者に与えられる恵みなのです。
この物語は、私たち自身の心にも問いを投げかけます。私たちはいったい、何を一番大切にしているでしょうか。富でしょうか。家族でしょうか。名誉や安全でしょうか。
それら自体は悪いものではありません。しかし、それらが主に従う妨げになるとき、私たちは選択を迫られます。神に従うために、何を手放すことができるか。そこに信仰の真価が現れます。
「すべてを捨てる」とは、財産をすべて放棄することではなく、自分の人生の主権を神に明け渡すことです。自分の持ち物も、家族も、才能も、時間も、すべて神から与えられたものであり、神のために用いられるべきものとして差し出すことです。
そのように生きるとき、私たちは失うどころか、真の自由と喜びを得ます。それこそが、「すべてを捨てた者への約束」の意味なのです。









