聖書を開こう

永遠の命を得るには(マタイによる福音書19:16-26)

放送日
2025年10月23日(木)
お話し
山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:永遠の命を得るには(マタイによる福音書19:16-26)


 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「永遠の命」と聞いて、どんなことを思い浮かべるでしょうか。

 死んだあとも魂が生き続けること、あるいは天国での平安な生活を思い描く方もいるかもしれません。ある人は、「永遠の命」という言葉を聞いただけで、ばかばかしいと感じるかもしれません。

 けれども聖書が語る「永遠の命」は、単に死後の幸福な生活や永遠に長生きすることではありません。それは、永遠であられる神と共に生きる命の問題です。神と断絶していた私たちが、神との交わりの中に生きること、これが聖書の語る「永遠の命」です。

 きょうの箇所には一人の青年が登場し、「永遠の命を得るにはどうすればよいか」と真剣にイエスに尋ねます。この問いは、人生の意味を求める問いでもあり、また、この地上での人生をよりよく生きたいと願う真剣な問いでもありました。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書19章16節~26節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
 イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。

 前回取り上げた箇所は、イエスが子どもたちを祝福される場面でした。それに続いて、この裕福な青年が登場します。子どものように素直な信仰を持つことが天の国に入る条件であると語られた直後に、財産があって、道徳的にも立派な青年が現れます。これは明らかな対比です。イエスは、この青年との対話を通して、天の国に入るとはどういうことかを改めて示されます。

 当時のユダヤ社会では、「永遠の命」というテーマは、ファリサイ派とサドカイ派の間で激しい議論の的でした。ファリサイ派は復活や来るべき世の命を信じており、律法を忠実に守ることが永遠の命への道だと考えていました。

 一方、サドカイ派はこの世限りの現実主義者で、復活も来世も認めていませんでした。彼らにとって「永遠の命」とは、存在しない概念でした。

 このような宗教的空気の中で、「永遠の命を得るには何をしたらよいか」とイエスに尋ねた青年は、明らかにファリサイ派的な背景を持つ人物だったと考えられます。この青年は律法を真面目に守り、信仰心もありました。真摯な動機でこの質問をしました。

 青年は言いました。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」

 ここに、この青年の信仰理解の限界が表れています。この青年は「何か善いことをすれば」永遠の命が得られると思っていました。

 イエスはまず、「なぜ善いことについてわたしに尋ねるのか。善い方はただ一人、神だけである」と応じられます。

 イエスはこの青年の心を正しい方向に導こうとされています。「善とは何か」「善を行うとはどういうことか」という根本を問い直させているのです。人間の努力で永遠の命に到達することはできません。神だけが真の善であり、命を与える源だからです。

 それでもイエスはすぐに青年の問いを退けず、「永遠の命に入りたいのなら、戒めを守りなさい」とおっしゃいます。

 これは、「律法を守れば救われる」という意味ではありません。イエスは青年の信仰の理解に合わせて、まず律法の基本から導こうとされました。青年が自分の力に頼っていることを、気がつかせるための第一歩でした。

 青年は答えます。「どの戒めを守ればよいのでしょうか」。

 イエスは人間関係に関わる戒めをいくつか挙げます。

 青年は胸を張って言いました。「それはみな守ってきました。まだ何が足りないのでしょうか」。

 なんと率直で、誠実な答えでしょう。この青年は本当に真面目に信仰生活を送っていました。けれども同時に、この言葉には深い虚しさがにじんでいます。どれほど律法を守っても、心の奥に「まだ足りない」という思いが残っていたからです。

 人間は行いによって義を得ようとすればするほど、自分の限界に突き当たります。完全に神の前に正しい者などいません。青年は、まさにその限界に立っていました。

 イエスはおっしゃいます。

 「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」

 この言葉は多くの人に衝撃を与えます。なぜイエスは、ここまで過激なことを求められたのでしょうか。

 イエスの目的は、青年から財産を奪うことではなく、心の束縛を解き放つことでした。

 青年は財産を多く持っていました。この人にとって財産は、神の祝福の証であり、人生の安心の基盤でした。しかしその財産こそが、神に全面的に信頼することを妨げていました。

 イエスは、その束縛を断ち切るように求めました。「あなたの信頼を財産から神に移しなさい」と言われたのです。

しかし、青年は深く悲しみながら立ち去りました。この人は善良で真面目な人でした。永遠の命を求めながらも、地上のものへの執着から自由になれなれませんでした。

 青年が去った後、イエスは弟子たちにおっしゃいました。

 「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」

 これはイエスの誇張的な表現ですが、意味は明確です。金銭への執着は、神への信頼を奪う大きな偶像となります。財産そのものが悪いわけではありません。問題は、心がそれに縛られていることです。神ではなく財産に頼る心が、天の国への道を塞ぐからです。

弟子たちはこの言葉を聞いて非常に驚きました。彼らは「金持ちは神に祝福された人」という当時の常識を持っていたからです。

「それでは、いったい誰が救われるのか」と弟子たちは尋ねます。イエスはその問いに答えて、「人間にできることではないが、神には何でもできる」とおっしゃいます。

 ここに、この物語の核心があります。永遠の命は、人間の努力や功績によって得られるものではありません。神の恵みによってのみ与えられるものです。神は不可能を可能にされる方。罪に縛られた人間を救い、永遠の命にあずからせるのは、神の力以外にはないのです。

今週のプレゼント ≫「これでスッキリ、18の疑問」山下正雄著(5名) 【締切】10月29日

新着番組

  1. 永遠の命を得るには(マタイによる福音書19:16-26)

  2. 神の言葉に従う

  3. コヘレト12章 空しい人生から解き放ってくださる方

  4. 欠乏を満たされるキリスト

  5. コヘレト11章 朝も夜も手を休めず種を蒔き続けろ