聖書を開こう

子供たちに天の国を(マタイによる福音書19:13-15)

放送日
2025年10月16日(木)
お話し
山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:子供たちに天の国を(マタイによる福音書19:13-15)


 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 私たち大人は、時に子供をどう扱うべきか迷うことがあります。可愛らしく思い、大切にしようと思う一方で、時に子供をわずらわしく感じてしまうこともあるのではないでしょうか。

 忙しいときにしつこく問いかけられたり、静かにしてほしいときに騒がれたりすると、「ちょっと黙っていてほしい」と言いたくなることもあると思います。

 そんなとき、私たちは子供を一人の人格としてではなく、自分の都合に合わせて扱ってしまう危険があります。けれども聖書は、子供に対する私たちの態度に、天の国を受け入れる大切な鍵が隠されていると教えています。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書19章13節~15節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた。

 今お読みした箇所の前後の流れを確認しておきましょう。直前の19章1節から12節では、ファリサイ派の人々がイエスに離縁について問いかけ、結婚と離婚について議論が交わされています。

 そこでは、結婚が神の御心に基づく深い結びつきであること、そして人間の心の頑なさによって離縁が許されてきた歴史的背景が語られます。

 イエスは結婚の本質を語り、神の御心に立ち返るように求めました。そのやり取りは、大人同士の深刻な議論であり、社会的にも宗教的にも重いテーマでした。

 そのような議論の直後に、この「子供たちの場面」が登場します。大人の議論の緊張から一転して、子供が登場する場面は、どこかほっとする空気をもたらすようにも思えますが、実際にはイエスの教えはさらに鋭いものとなっています。

 当時の社会では子供はどんな位置づけだったのでしょう。

 現代の私たちは、子供を大切に育てることが当たり前だと思っています。しかし、古代社会では、子供はしばしば一人前の存在としては認められていませんでした。

 権利を持つこともなく、社会的には弱い立場に置かれていました。子供は将来大人になることで価値を持つと考えられがちで、今この時点では未熟で取るに足らない存在と見なされていました。

 そのような時代背景の中で、子供たちがイエスのもとに連れて来られたのです。

 弟子たちは人々を叱ったと記されています。弟子たちはなぜ叱ったのでしょうか。

 おそらく、子供がイエスの貴重な時間を邪魔すると考えたのでしょう。大切な教師であるイエスを、子供のために煩わせることは無駄だと判断したのかもしれません。弟子たちにとって、イエスの使命は大人たちに神の国を教えることであり、子供はその対象外と見えたのでしょう。

 ましてエルサレムへ向かう大切な旅の途上にあるイエスの時間を、子供たちのために無駄にしてしまうことは論外だと思ったのかもしれません。

 しかし、イエスは弟子たちに全く逆のことをおっしゃいます。

 「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである」と宣言されました。

 イエスにとって子供は取るに足らない存在ではなく、むしろ天の国を理解するために不可欠な存在でした。

 ここで注目すべきは「このような者たち」という言葉です。

 イエスは子供たちそのものが天の国を相続する、とおっしゃっただけではなく、大人も子供のようでなければ天の国に入れないことを示唆しています。

 子供は未熟で、無力で、依存的な存在です。しかし、その無力さのゆえに、大人とは違った生き方をしています。彼らは信頼する相手に全てをゆだねることができます。この信頼こそが、天の国を受け入れる鍵です。

 イエスは別の箇所でも、「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」と教えられました(マタイ18:3-4)。子供のように神を信頼し、へりくだって受け入れる心が、天の国に迎え入れられる人には必要です。

 さて、ここで私たち自身の生活に引き寄せて考えてみましょう。

 現代社会でも、子供の声がわずらわしいと感じられることがあります。特に大人の集まりの中では、子供が疎まれることもあります。

 教会でも同じことが起こり得ます。礼拝の場で子供の泣き声や騒ぎ声が気になるとき、私たちはつい「静かにしてほしい」と思ってしまいます。

 しかし、イエスは子供たちを排除するのではなく、迎え入れられました。子供たちがイエスのもとに来るのを妨げてはいけないとおっしゃいます。

 それだけではありません。子供から学ぶべきことが私たちにはあります。

 幼い子供は親を全面的に信頼します。自分で生きる力を持たないからこそ、親に身を委ねます。同じように、私たちも神に自分を委ねる信頼を持たなければなりません。

 大人になると、つい自分の力や経験に頼ろうとします。自分の知識や地位、財産に依存してしまいます。しかし、それらは天の国を受け入れる助けにはなりません。むしろ妨げになることもあります。必要なのは、子供のように素直に神を信じ、委ねる心です。 

 イエスは子供たちの頭に手を置いて祈られました。これは祝福のしるしです。旧約聖書の中でも、祝福はしばしば子供たちの頭に手を置いて授けられました。イエスは子供たちを祝福されただけでなく、子供たちの存在そのものを天の国の模範として示されました。

 私たちは天の国に憧れを持っています。しかし、その天の国は、大人のように複雑な議論や理屈を積み重ねた結果として得られるものではありません。むしろ、子供のように単純に信頼し、受け取る者のものです。神の愛をそのまま受け止める心、イエスに全てを委ねる心こそが、天の国を受け入れる鍵です。

 弟子たちは子供たちを軽んじ、イエスに近づけまいとしました。しかし、イエスは逆に「子供たちを来させなさい」とおっしゃり、「天の国はこのような者たちのものである」と宣言されました。天の国は、子供のように神を信じ、身を委ねる者に開かれています。

 私たちも、子供たちを大切にし、彼らを通して神の国の奥義を学び取る者となりましょう。そして、自分の力や知恵に依り頼むのではなく、子供のように素直に神に信頼し、天の国を受け継ぐ者とされたいと願います。

 きょうも神の祝福が、あなたと、あなたの愛する子供たちの上に豊かにありますように。

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