山下 正雄(ラジオ牧師)
メッセージ:罪赦された者に求められる振る舞い(マタイによる福音書18:21-35)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
私たちは日常生活の中で、人から傷つけられたり、不当な扱いを受けたりすることがあるものです。小さな行き違いから大きな争いに発展することも少なくありません。そんなときに心の中で「どうしてあの人を赦さなければならないのだろう」と感じることはないでしょうか。赦すということは、決して簡単なことではありません。
きょうは、「赦し」に関するイエスの教えを通して、赦しを受けた者にふさわしい生き方についてご一緒に考えてみたいと思います。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書18章21節~35節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」
きょうの箇所を理解するために、その直前の文脈を確認しておきたいと思います。
前回取り上げた箇所では、もし兄弟が罪を犯した場合にどのようにして和解へと導くべきかが示されていました。まず個人的に注意し、それでも聞き入れない場合には証人を立て、さらに教会全体に訴え、それでも受け入れないなら異邦人や徴税人のように扱いなさい、と言われています。つまり、兄弟の罪をただ放置するのではなく、あくまで回復と和解を目指す手順が示されています。
この流れを受けて、ペトロがイエスに質問します。
「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」
ペトロの問いは、実に現実的な問いです。人を一度や二度赦すことはできても、繰り返し同じ過ちを犯されると、もう我慢の限界だと思うのが私たちです。
では、なぜペトロは「七回」と言ったのでしょうか。ユダヤのラビたちの伝統では、三度まで赦せば十分だとされていたとも言われます。そう考えると、「七回まで」と口にしたペトロは、むしろ寛大さを示したつもりだったのかもしれません。聖書の中で「七」という数字は完全数、神の完全さを表す数字でもありますから、ペトロは「完全な数だけ赦せば十分だろう」と考えたのかもしれません。
しかし、イエスの答えはペトロの予想をはるかに超えるものでした。
「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」
もちろんイエスは数学的に490回まで数えて赦しなさいとおっしゃっているわけではありません。「際限なく赦しなさい」ということを強調しての言葉です。人間的な限界を超えて、神の赦しの広さに倣うように、とイエスは求めておられます。
そして、イエスはこの教えを一つのたとえ話で説明なさいます。
ある王が僕たちと決算をすることになりました。すると、1万タラントンも借金をしている僕が連れて来られます。
ここで「1万タラントン」という額に注目しましょう。1タラントンは6千デナリオンに相当します。1デナリオンは労働者の一日分の賃金でした。つまり、1タラントンで六千日分、16年半分の賃金になります。それが一万倍ですから、16万年以上働いても返せない額ということになります。まさに天文学的な数字です。イエスは、返済不可能な途方もない借金をわざと提示することで、神に対する私たちの罪の大きさを示しています。
その僕は当然、返済できません。そこで主人は、本人や家族を売って借金の一部でも取り立てようとします。すると僕はひれ伏して「どうか待ってください。きっと全部お返しします」と願います。しかし、それは到底不可能な約束でした。にもかかわらず、主人は彼を憐れんで、その借金をすべて帳消しにしてしまいます。
ところが、赦されたばかりのその僕が外に出ると、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会います。百デナリオンは百日分の賃金、約三か月分に相当します。確かに大きな額ですが、努力すれば返せる現実的な金額です。ところが彼はその仲間を捕まえて首を絞め、「借金を返せ」と迫ります。
仲間も同じように「どうか待ってくれ。返すから」としきりに願います。しかし彼は赦さず、仲間を牢に投げ入れてしまいます。
この出来事を聞いた主人は激しく怒り、「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」と言って、彼を牢に引き渡してしまいます。
イエスはこのたとえ話を通して、「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう」と厳しく結論づけられました。
このたとえ話から浮かび上がるのは、私たちが神から赦されている罪の大きさと、それに比べたら人と人との間の罪はどれほど小さいかということです。1万タラントンの借金は返済不能でした。神の御前で私たちが背負う罪もまた、自分の努力では到底返すことのできないものです。
しかし神は、キリストの十字架によって、私たちの罪の借金を完全に帳消しにしてくださいました。
それにもかかわらず、赦された僕が仲間を赦さなかったように、私たちもまた他人の過ちを赦さず、心の中で握りしめ続けることがあるのではないでしょうか。
現代社会に生きる私たちにとっても、この教えは極めて切実です。家庭の中で、夫婦や親子の関係で繰り返される小さな衝突。職場での行き違い。友人関係の中での裏切り。赦さない心はやがて憎しみへと変わり、人間関係を壊してしまいます。
しかし、赦すことは単に相手のためではなく、自分自身のためでもあります。赦さない心を握りしめている限り、自分の心はいつまでも過去に縛られ、苦しみ続けるからです。赦しとは、相手を自由にするだけでなく、自分自身をも自由にする力となります。
もちろん、赦すことは容易ではありません。しかし、私たちはまず神から無限の赦しを受けた者です。その赦しを思い起こすとき、私たちは少しずつでも人を赦す力が与えられます。赦しを受けた者として、赦しを生きる。それこそが、クリスチャンに求められる生き方なのです。