聖書を開こう

赦し受け入れる知恵(マタイによる福音書18:15-20)

放送日
2025年9月25日(木)
お話し
山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:赦し受け入れる知恵(マタイによる福音書18:15-20)


 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 私たちの人生には、人との関わりの中で避けて通れない課題があります。それは「赦す」ということです。

 例えば、親しい友人に裏切られた経験がある人は少なくないでしょう。信頼していた人に嘘をつかれたり、陰で悪口を言われたりしたとき、心は深く傷つきます。「もうあの人なんて信じられない」「顔も見たくない」と思ってしまうのが人情です。私たちは、自分が誰かを傷つけてしまったときには赦されたいと願うのに、いざ自分が傷つけられると、赦すことがどれほど難しいかを痛感します。

 しかし聖書は、そんな私たちに「赦すことの知恵」を教えてくれます。それは単なる人間関係のコツではありません。神が私たちをどのように見ておられるのか、神の御心がどこにあるのかを知るときに初めて見えてくる知恵です。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書18章15節~20節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

 今お読みした箇所を理解するために前後の流れを確認しましょう。

 18章の最初の部分で弟子たちは「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と尋ねました。そのときイエスは一人の子どもを真ん中に立たせ、「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」と語られました。つまり、神の国での偉さは、権力や能力ではなく、へりくだった心にあると教えられたのです。

 続けてイエスは、「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」と語ります。そして「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」と強調されました。

 この視点が、今日の箇所を読み解く上で大切な土台になります。つまり、神は小さな者、弱い者、迷いやすい者を決して見捨てないということです。その御心に立つとき、私たちも互いに赦し合い、受け入れ合う道を歩むことができるのです。

 イエスが語られた時代、ユダヤの社会では共同体の結束が非常に重んじられていました。共同体から締め出されることは、単なる人間関係の断絶にとどまらず、社会的にも宗教的にも孤立を意味しました。

 そのため、共同体を守るためには罪を軽視せず、同時にできる限り回復を目指す知恵が求められました。イエスが教えられた「赦しと受け入れの知恵」は、単なる仲直りの方法ではなく、神の家族である教会共同体をいかにして守り育てるかという実際的な指針でもありました。

 それでは、今日の箇所を順に見ていきましょう。

 直前の個所でイエスは「百匹の羊を持っている人がいて、その一匹が迷い出たとすれば…」と語り始めました。常識的には、九十九匹を放っておいて一匹を探しに行くことは損得勘定に合いません。しかし、羊飼いである神はそうされるおっしゃいます。

 そしてイエスは言われます。「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」。ここには、損得ではなく愛に基づく神の情熱が表れています。見捨てられて当然と思える者をも、神は探し求め、連れ戻してくださいます。

 続いてイエスは、共同体の中で罪を犯した兄弟への対応を教えます。

 最初は一対一で忠告し、それでも聞き入れなければ二人または三人を立ち会わせ、それでもだめなら教会に告げます。最後まで聞き入れなければ「その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」と命じられます。

 一見すると厳しく突き放すように見えます。しかし、これは単なる排除ではなく、あくまで回復を目指す過程です。段階を踏むのは、相手に悔い改めと回復の機会を何度も与えるためです。そして「その人を異邦人か徴税人と同様に見なす」とは、単に神を知らない愚かな人と見下すのではなく、イエスが彼らを愛し、救いに招かれたように、なおも祈りと関心を持ち続けることを意味します。

 さらにイエスは「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」と語ります。これは教会に与えられた大きな責任を示す言葉です。

 人間関係の修復や共同体の一致を図る営みは、単なる地上的な努力ではありません。天の父の御心と深く結びついているということです。だからこそ、二人でも三人でも心を合わせて祈るなら、神が共におられると約束されています。

 では、ここから、私たちの生活にどう結びつくのかを考えてみましょう。

 まず覚えたいのは、私たち一人ひとりが「小さな者」であるということです。私たちは皆、弱さを抱え、間違いやすく、迷いやすい存在です。だからこそ、神は私たちを見捨てずに探し求めてくださっています。その神の愛に立つとき、私たちも他者を見捨てない心が与えられます。

 第二に、人を赦すことは一度で終わることではありません。傷つけられた記憶が蘇るたびに、私たちは赦し直さなければなりません。そのたびに、神が私を赦してくださった恵みを思い起こすことが必要です。赦す知恵とは、自分の力ではなく、神の御心に立ち返る知恵に他なりません。

 第三に、教会は完全な人の集まりではありません。むしろ、不完全で罪深い人々が集められた共同体です。だからこそ、そこには衝突や誤解が起こります。しかし、その中で赦し合い、受け入れ合うことによって、神の愛が現れます。赦し合う共同体は、この世界に対する神の愛の証しとなります。

 最後にもう一度、イエスの言葉を心に刻みたいと思います。

「そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」(マタイ18:14)。

 赦しと受け入れの知恵は、ここから出発します。自分もまた神に赦され、見捨てられなかった小さな者であることを覚えるとき、私たちは他者を見捨てず、赦し、受け入れる心へと導かれます。

 どうかきょう、この神の御心に立って歩みましょう。私たちの周りにいる「小さな者」を見捨てず、赦し、受け入れる。そのとき、神の国の現実が私たちの間に現れるのです。

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