聖書を開こう

自分を捨てて従うとき、命が見つかる(マタイによる福音書16:24-28)

放送日
2025年7月31日(木)
お話し
山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:自分を捨てて従うとき、命が見つかる(マタイによる福音書16:24-28)


 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 自分の人生をかけてでも守りたいもの、そうした大切なものは、誰にでもあると思います。家族、仕事、夢、名誉、自由……人によってさまざまです。しかし、聖書は私たちにこう問いかけています。「たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」と。

 きょうは、イエス・キリストが語られた、とても挑戦的で、同時に深い慰めを含んだ言葉に耳を傾けたいと思います。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書16章24節~28節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」

 きょうの場面は、イエスが弟子たちにご自分の死と復活を初めて予告された直後のことです。弟子のペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰を告白し、イエスから「岩」と呼ばれて称賛されたその直後、イエスが「私は苦しみを受けて殺され、三日目によみがえる」と話されると、ペトロは「主よ、そんなことがあってはなりません」とイエスをいさめ始めました。

 ペトロの反応は、イエスに深い期待と敬愛を抱いていたからこそ出たものでしょう。しかし同時に、それはイエスの十字架の道を拒むものであったために、イエスは厳しくペトロを非難して「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と言われました。

 その直後に語られたのが、今日の箇所です。イエスは弟子たちに、いえ、弟子たちばかりではなく、ご自分について来たいと思うすべての人に向けてこう言われました。

 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(24節)。

 これは、聞く人の心を震わせる言葉です。「自分を捨てる」「十字架を背負う」……それはただの比喩ではありません。実際にイエスはこの後、十字架の死に向かって歩まれました。そして、弟子たちの中にも、文字通り自らの命を差し出して信仰を守り通した者たちがいました。

 しかし、ここで語られている「自分を捨てる」とは、自分が無価値であるとか、否定されるべき存在だとか、単に自暴自棄になるいう意味ではありません。自己中心的な考え方、自分の思い通りに人生を設計しようとする傲慢な思いを手放すことを意味しています。

 自分が自分の主人であるとする自己主張をやめることです。自分を自分の手の中に握り締めて、キリストに明渡さない態度をやめることです。わたしはもはやわたしの主人でさえないことを認めることです。

 キリストの弟子となるということは、自分中心に考えていた生き方を捨てて、キリストを中心に生き方を定めるということです。

 そして「自分の十字架を背負う」とは、困難を我慢すること以上の意味があります。よく言われる「人生の重荷」とは違います。人生の重荷は当然、他の人には負えない重荷ですから、その人にしか負えないのは当たりまえです。けれども、人生の重荷は主に委ねることが許されています。他の人たちに共感してもらうこともできます。

 しかし、ここでいう「自分の十字架を背負う」とは、イエス・キリストの弟子であるがゆえに受ける苦難です。キリストご自身、弟子たちが体験するであろう苦難について他の箇所で何度となく語っています。たとえそれが痛みを伴い、損をするように見える道であっても、神に信頼してその道を歩み続けることを指します。

 イエスは続けてこう言われます。

 「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」(25節)。

 この逆説的な言葉は、人生の本質を突いています。私たちは本能的に「命を守りたい」「損をしたくない」と願います。自分の安全、自分の権利、自分の将来を確保しようとします。しかし、その自己防衛的な生き方が、かえって命を失う結果になるとイエスは語ります。

 では、どのような人が本当の命を得るのでしょうか。

 それは、「わたしのために命を失う者」…つまり、イエスのために、自分の思いを手放し、神の御心に従って歩む人です。

 この言葉は、私たちが自分の存在を全否定して、滅びるべきだということではありません。むしろ、自分の人生をイエスにゆだねるときに、私たちは初めて本当の命、永遠の命を与えられるということです。

 「たとえ、人が全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」(26節)。

 これはとても鋭い問いです。もし人生の中で何でも手に入ったとしても、それで魂を失うならば、それにどんな意味があるのでしょうか。

 現代の社会は、自己実現や成功を追い求める傾向が強く働いています。しかし、イエス・キリストは「魂の価値」を問いかけています。永遠の命に比べたら、この世の成功も財産も、ほんの一時のものに過ぎません。

 この問いは、今を生きる私たちにも鋭く突き刺さります。目先の利益のために真実を曲げていないか、便利さや楽しさを優先して心の奥底にある渇きを見過ごしていないか……イエスは「本当の命は、神との関係にある」と語っておられます。

 最後に、イエスはこうお語りになります。

 「人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである」(27節)。

 イエス・キリストは再び来られます。そのとき、すべての人の人生が神の光の中で評価されます。この世界で隠されていたことも、無名の信仰の歩みも、神の前にはすべて明らかにされ、報いが与えられます。

 私たちは、今目に見える現実だけを見て判断してしまいがちです。しかし、神の国は永遠に続く神のご支配です。そして、イエスを信じて従う者には、永遠の命と栄光の希望が約束されています。

 イエス・キリストの招きは今も続いています。

 「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」

 この言葉は、厳しく聞こえるかもしれません。しかし、この言葉の背後には、深い愛と真実があります。

 イエスが私たちに「自分を捨てよ」と語るのは、私たちを苦しめたいからではありません。むしろ、私たちが自分の限界と罪に縛られている現実から解き放たれて、本当の命、神との関係に生きる命にあずかってほしいからです。

 人生において、本当に価値あるものは何でしょうか。

 すべてを手に入れても魂を失ってしまうなら、意味はありません。たとえすべてを失うように見えても、イエスに従う中で魂を得るなら、それこそが真の勝利です。

 私たちはそれぞれの人生の中で、多くの選択を迫られます。自己中心に生きるか、イエスに従って歩むか、それは簡単な決断ではありません。しかし、イエスははっきりとこう語られました。

 「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」

この約束を信じて歩みましょう。そこには、永遠のいのちと、決して揺るがされることのない希望があるのです。

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