聖書を開こう

人の思いと神の思いの違い(マタイによる福音書16:21-23)

放送日
2025年7月24日(木)
お話し
山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:人の思いと神の思いの違い(マタイによる福音書16:21-23)


 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 ちょっと変な質問ですが、もし、理想的な世界を実現できる救い主が遣わされてきたとしたら、その救い主にはどんなことを期待するでしょうか。速やかに世界を変える力を持った救い主でしょうか。それとも、その救い主自身も、最後は人間の暴力によって殺されてしまう救い主でしょうか。そんな救い主を期待する人など誰もいないでしょう。

 きょう取り上げる個所は、イエス・キリストが弟子たちに初めてご自身の「死」について語られる場面です。その言葉を受け入れることができないペトロを、イエス・キリストが厳しい言葉で叱責される、そんな緊張感あふれる場面が描かれています。

この箇所は、マタイによる福音書の中でも、ひときわ重い意味を持つ場面です。なぜなら、ここでは「人の思い」と「神の思い」の違いが、はっきりと浮き彫りにされるからです。

 私たちもまた、日々の暮らしの中で、知らず知らずのうちに「神の思い」とは異なる「人の思い」に引きずられてしまうことがあります。きょうは、この出来事を通して、神の思いとは何か、そしてその思いに従うとはどういうことかを、ご一緒に考えていきたいと思います。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書16章21節~23節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」

 今お読みした箇所の文脈を少し振り返ってみましょう。今日の箇所の直前には、ペトロの信仰告白が記されていました。イエスが弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問いかけたとき、ペトロはこう答えました。

 「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16:16)。

 イエスはこの告白を喜ばれ、ペトロを「岩」と呼び、「この岩の上に私の教会を建てる」とまでおっしゃいました。

 しかし、その直後に起こるのが、今日の出来事です。ペトロはイエスをメシアと言いながらも、イエスが語られる「苦しみ」や「死」を受け入れることができませんでした。ペトロの期待するメシア像と、イエスご自身が示すメシアの姿には、大きな隔たりがあったからです。

 マタイによる福音書にはこう記されています。

 「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた」(マタイ16:21)。

この「このときから」という言葉は重要です。それは、ペトロの信仰告白を受けて、イエスがいよいよご自身の使命の核心、つまり「苦しみを受け、殺され、復活する」という出来事を弟子たちに明らかにし始めた、ということを示しています。

 しかし、これは弟子たちにとって、まったくの想定外でした。特にペトロにとっては、到底受け入れがたい内容です。

 続けてペトロの反応が記されます。

 「すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。『主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません』」(マタイ16:22)

 これは、ある意味、私たちの感覚にも近い反応かもしれません。愛する人が「これから私は苦しんで死ぬのだ」と言い出したら、だれでも「そんなことを言わないでください」と止めたくなるでしょう。ペトロの言葉は、イエスへの思いやりから出たものだったのかもしれません。

 しかし、イエスの返答は、驚くほど厳しいものでした。

 「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」(マタイ16:23)

 これは、ペトロにとってどれほど衝撃的だったでしょうか。ほんの少し前まで「あなたは幸いだ」と褒められ、「天の国の鍵を授ける」とまで言われたのに、今や「サタン」とまで呼ばれ、厳しく叱責されてしまいます。

 イエスはなぜここまで激しく反応されたのでしょうか。それは、ペトロの言葉の中に「神の思い」とは正反対の「人の思い」が含まれていたからです。いや、もっと言えば、それはサタンが荒れ野の誘惑の中でイエスに語ったのと同じ性質の声だったからです(マタイ4章参照)。

 サタンの誘惑は、要するに「苦しみなんか通らず、みんながアッと驚くような方法で、栄光を得よ」というものでした。ペトロの言葉もまた、「苦しみも死も通らずに、メシアとしての栄光を得てほしい」と願う声でした。しかし、神の救いのご計画は、苦しみと十字架を通して成し遂げられるものでした。

 この出来事は、私たちにとっても深い問いを投げかけます。私たちの中にも、「神を信じるなら、苦しみは避けたい」「人生は順風満帆であってほしい」と願う思いがあります。

 しかし、聖書は何度も語っています。神の道は、人の道とは異なると。

 「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり わたしの道はあなたたちの道と異なると 主は言われる。」(イザヤ55:8)

 神の思いは、私たちの思いを超えています。私たちが「避けたい」と願う苦しみや困難の中に、神の救いのご計画があることがあります。イエス・キリストの十字架がまさにそうです。

 現代の私たちも、ペトロと同じように「人の思い」によって神の計画を誤解することがあります。

 たとえば、「成功している人が祝福されている」「病気や貧しさは信仰が足りないからだ」と安易に考えてしまいがちです。イエスは十字架への道を歩まれました。それは、まさに苦しみを通して、救いが実現されるという神の深いご計画のゆえでした。

 苦しみを通らなければ、見ることができない神の恵みがあります。失敗や痛みを経験しなければ気づけない、神の愛があります。そして何より、十字架の先にある復活こそが、私たちの希望なのです。

 最後に、もう一度イエスの言葉に耳を傾けましょう。

 「あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」

これはペトロだけでなく、私たち一人ひとりへの問いかけでもあります。

 神の思いは、苦しみの中にあっても希望を与える思いです。神の思いは、十字架を通して命をもたらす思いです。私たちがその神の思いに心を合わせて歩むことができますようにとお祈りいたします。 

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