山下 正雄(ラジオ牧師)
メッセージ:癒しの山に広がる神の国(マタイによる福音書15:29-31)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
きょう取り上げようとしいる場面は、ガリラヤ湖周辺の山での出来事です。そこから見渡す湖は、時には湖面に反射した陽の光が目に刺さるほどきらきらと輝き、時には雲の間から湖面に舞い降りる幾筋もの優しい光の帯が、湖面をなでるように降り注いで見えます。それはヤコブが夢に見た天から地上へと差し向けられた階段を彷彿させる景色です。
そういう場所に立ったとき、人は自分がこの世界のほんの一部であることを感じたり、何か大きな存在に包まれているような、そんな感覚にとらわれることがあります。
きょうの聖書の場面には、イエス・キリストが山に登られて、そこに集まった大勢の人々が、癒しと希望を経験する姿が描かれています。そこはまさに、「神の国」が広がる風景です。静かに、しかし確かに、神の恵みが流れ込む情景が描かれています。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書15章29節~31節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
イエスはそこを去って、ガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして、山に登って座っておられた。大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。群衆は、口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美した。
今お読みしたこの短い3節の中に、私たちは人々の深い苦しみ、イエス・キリストのあわれみ、そして神の国のしるしが凝縮されているのを見ます。
きょうの話は「イエスはそこを去って、ガリラヤ湖のほとりに行かれた」と始まります。
ガリラヤはイエス・キリストの活動の拠点でした。そして山に登り、そこに座られます。
この山が具体的にどの山かということよりも、この「山」という描写には象徴的な意味があります。聖書では、神がご自身を現される場所として「山」がしばしば登場します。
モーセがシナイ山で神の戒めを受け取ったこと、エリヤがホレブ山で神の声を聞いたこと。そして、新約においても、イエスが山の上で語られた「山上の説教」など、「山」は神の臨在とつながっています。
ここでイエスは、山に座られました。教師として、いやし手として、群衆を迎える姿勢です。人々はその姿に引き寄せられるように、次々と病人たちを連れてきました。
群衆が連れてきた人々の姿は、まさに当時の社会の片隅に追いやられていた人々です。足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人……。これらの人々は施しによって生活を維持しなければならない境遇の人たちでした。時には、そうした境遇を罪の結果とみる差別的な視線にさらされることもありました。
しかし、イエスはそうした人々を拒みませんでした。群衆が彼らを「イエスの足もとに横たえた」とき、イエス・キリストは彼らをお癒しになりました。
ここでの「癒し」は単なる身体的な回復だけではありません。人としての尊厳の回復、共同体への回復、神との関係の回復……そうした癒しの全体像がここにあります。
イエスが癒されたのは「口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになる」という奇跡でした。
これは、旧約聖書の預言がメシア(救い主)が来るときに起こるしるしとして預言していたものです。
たとえば、イザヤ書35章にはこう記されています。
「そのとき、見えない人の目が開き 聞こえない人の耳が開く。そのとき 歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。 口の利けなかった人が喜び歌う」(イザヤ35:5,6)
イエス・キリストが行った癒しの奇跡は、まさに神の国がすでにこの地上に現れ始めていることのしるしでした。神の国とは、苦しみや痛み、差別や排除が終わりを告げ、すべての人が神の愛と交わりの中に招かれる世界です。その神の国が、山の上に、イエスのまわりに、確かに広がっていました。
群衆はその奇跡を目の当たりにし、ただ驚いただけではありません。彼らは「イスラエルの神を賛美した」と記されています。この一言は非常に重要です。
群衆は、イエスを通して働かれる神の力を見て、その神に栄光を帰したのです。これは、旧約から続く神の物語に自分たちの体験がつながったということです。
彼らが目の当たりにした癒しは、ただの奇跡ではなく、イスラエルの神が生きておられる証しでした。
さて、この癒しの山の風景は、私たちの今の現実とどうつながっているのでしょうか。
第一に、私たちもまた、人生の中でさまざまな「不自由」を抱えています。それは身体的なものだけでありません。心の傷や、人間関係の断絶、将来への不安、自分に対する無価値感……そうした内なる痛みを抱えている人は少なくありません。
イエスは、そうした痛みを見過ごされません。足もとに連れて来られる人を拒みません。私たちはどんな姿のままでも、イエスのもとに行くことができます。癒されるために完全になる必要はありません。逆に、癒されるためにこそ、イエスのもとへ行くのです。
第二に、神の国は今ここに、イエスを通してすでに始まっているということです。
たしかに、完全な癒しと平和は、まだこの地上では実現していません。けれども、イエスが来られ、癒しをもたらされたその出来事は、神の国がすでに始まったことのしるしです。教会もまた、その神の国の「前触れ」として、この世界の中に存在しています。教会が、弱い人を受け入れ、支え、癒しを分かち合う場所であるとき、そこには神の国が広がっていきます。
第三に、私たちもまた、人々をイエスのもとへと連れて行く役割を担っています。マタイ15章では、病人たちが自力で来たのではなく、群衆が連れて来たとあります。私たちも、誰かを祈りのうちに、励ましの言葉によって、行動をもってイエスのもとに導くことができます。
結びにもう一度、この癒しの山の光景を思い描いてみてください。苦しんでいた人々が癒され、喜びにあふれ、神を賛美する姿。そこには境界線も差別もなく、ただ神の恵みがあふれています。
イエスの足もとには、すべての人に開かれた希望の場所があるのです。