聖書を開こう

神の国は何よりも尊い(マタイによる福音書13:44-52)

放送日
2025年5月1日(木)
お話し
山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:神の国は何よりも尊い(マタイによる福音書13:44-52)


 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 ずっと探していたものに偶然出会えたという経験をしたことがある人は少なからずおられると思います。たとえば、絶版になっていた貴重な本をたまたま立ち寄った古本屋で見つけたとか、あるいはビンテージ物のジーンズにふと立ち寄った旅先の店で出会ったとか……そんな時、私たちは自然と顔がほころび、この機会を手放したくはないと思います。

 今日、取り上げようとしている聖書個所で、イエス・キリストは、「人生をかけてでも手に入れる価値があるもの」について語っておられます。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書13章44節~52節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。
 また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」
 「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」

 今お読みした個所には四つのたとえが語られていました。最初の二つのたとえには共通点があります。どちらも、ある人が「とてつもなく価値あるもの」を手に入れるために、自分の持ち物をすべて売り払ったという点です。

 一つ目のたとえは、宝を「見つけてしまった」人の話です。

 当時、戦乱や略奪から財産を守るために、畑に宝を埋めておくということがありました。財産を埋めた本人が亡くなって何世代も経ってしまうと、その事実を知る人もいなくくなってしまいます。おそらく、それを発見したその人は小作人だったのでしょう。畑を掘っているとき、思いがけず何か固いものに当たり、掘り返してみると、そこには宝が埋まっていました。驚きと喜びに満ちたその人は、その宝をもう一度土に隠し、それを自分のものとするために、その畑を買う決意をします。すべてを売ってでも手に入れたいほどの価値が、そこにあったからです。

 二つ目のたとえでは、商人が出てきます。その商人は、もともと良い真珠を探していた人です。そしてついに「これは他のどんな真珠とも比べものにならない」と思える逸品に出会いました。その瞬間、彼は持ち物すべてを売って、それを手に入れます。

 宝に出会ったという点では共通していますが、違いもあります。一人は偶然見つけた人、もう一人は熱心に探していた人です。けれどもどちらにも共通するのは、それを見つけたとき、迷わず自分のすべてをかけたということです。

 この二つのたとえ話を、イエス・キリストは「天の国」つまり「神の国」のたとえとしてお語りになっています。これは大事なポイントです。

 イエス・キリストが宣教活動を始められたとき、こう宣言しました。

 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)

 イエス・キリストが宣べ伝える神の国とは、そのように、すでに手にしている価値ある物を手放してでも手に入れる価値が十分にあるということです。いえ、この世のどんなものよりも価値があるからこそ、今手にしているものを手放すことに何の未練も感じないのです。

 この世では、お金、名誉、地位、健康、家族、恋愛…さまざまなものが「大切」とされています。それ自体は悪いものではありません。けれど、どんなにお金を持っていても、病気にはなります。どんなに愛する人がいても、別れは訪れます。すべては限りあるものです。

 しかし、神の国の支配は永遠であり、この神に生かされる命も永遠です。神の国では、神ご自身との交わりがあり、完全な平和と喜びがあり、それが決して失われることのない宝なのです。それは、一時的な満足ではなく、私たちの人生全体を覆い尽くすほどの「深い意味と価値」を与えてくれます。

 このたとえ話には、実はもう一つのメッセージが隠されています。それは、「神の国の価値を本当に知っている人は、それに応答する」ということです。

 宝を見つけた人も、真珠を見つけた商人も、見つけただけでは終わりませんでした。彼らは、それを手に入れるために、自分の持ち物をすべて売り払います。つまり、自分の人生の優先順位を変えたのです。

 47節から50節では、三つ目のたとえ話が語られています。漁師が網を投げて魚を集めるたとえです。

 「天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。」

 これは、終わりの日に、正しい者と悪い者が分けられるという審判のたとえです。つまり、神の国の福音はすべての人に届けられるけれども、誰もが自動的に神の国に入れるわけではないという厳粛なメッセージです。

 イエス・キリストは、神の国を前にして、私たちがどう応答するかを問うておられるのです。

 最後にイエス・キリストはこう話を結んでおっしゃいました。四つ目のたとえです

 「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」(マタイ13:52)

 この言葉が、きょう取り上げた聖書個所の結びというよりは、13章全体の結びの言葉と言えます。

 ここで「学者」と訳されている言葉は、福音書の中ではしばしば「律法学者」と翻訳されてきました。

 神の国の教えを学んだ弟子たちは、この律法学者と対比されて「天の国のことを学んだ学者」と呼ばれます。神の国の福音を学んだ弟子たちは、ただ古い契約についての知識があるというにとどまらず、旧約時代を通してなされた神の救いの御業を、イエス・キリストを通して理解しなおし、イエス・キリストとともに始まった新しい救いの時代を大胆に語ることができる者たちです。

 今、イエス・キリストは新しい時代の救いに私たちを招いてくださっています。人生にはさまざまな選択があります。最も大切なのは、「永遠に価値あるものを選ぶこと」なのです。

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