聖書を開こう

神の家族の一員(マタイによる福音書12:46-50)

放送日
2025年4月3日(木)
お話し
山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:神の家族の一員


 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「家族」という言葉を聞いて思い浮かべるものは人それぞれだと思います。あなたにとって「家族」とはどんな存在でしょうか。両親や兄弟姉妹と一緒に食卓を囲んだ記憶がある人もいれば、血縁関係を超えて養育者や支援者とともに親身になって過ごした時間が家族のように心に残っている人もいるでしょう。家族の形はさまざまですが、多くの場合、私たちにとって身近で、大切な人々とのつながりを意味しています。

 しかし、同時に「家族」という言葉に複雑な思いを抱く人もいるかもしれません。血のつながりがあっても関係が冷え切っていることもあれば、逆に血縁がなくても深い絆で結ばれている場合もあります。それでは、「本当の家族」とは何でしょうか。

 きょう取り上げようとしている聖書の個所で、イエス・キリストはこの問いに対して驚くべき答えを語られます。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書12章46節~50節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」

 きょうの場面では、イエスの母マリアと兄弟たちがイエスに会いにやって来ます。しかし、イエスは家から出て彼らを迎え入れようともせず、一緒に集まっていた弟子たちを指して「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」とおっしゃいました。この実の家族に対するイエス・キリストの態度は、一見すると冷たいようにも感じられます。しかし、このエピソードは実はイエス・キリストの教えの核心を示しています。

 なぜイエス・キリストはこのようにおっしゃられたのでしょうか。それを理解するために、当時の状況を詳しく見てみることが大切です。

 実は、この時点ではイエスの家族は、まだイエスの働きを十分に理解していませんでした。

 マルコによる福音書3章20節以下には、次のように記されています。

 「イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである。」

 ここで記されている「身内の人たち」とは、母マリアや兄弟たちを指していると考えられます。人々は、イエスが食べる暇も惜しんで群衆の相手をし、宗教指導者たちとは対立する姿を見て「あの男は気が変になっている」と噂していました。その噂を心配して連れ戻そうとやって来た母マリアや兄弟たちでした。

 家族の絆がとても重視されていたこの時代に、イエスが家を離れ、大胆に神の国を宣べ伝える姿は、家族にとって理解しがたいものであったことでしょう。特に、長男であるイエスは家の責任を負う立場であったため、その行動は周囲からは異常に見えたのでしょう。

 イエス・キリストはそのような家族の心配をよそに、家族の来訪を取り次いだ人にこうおっしゃいました。

 「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」

 そして弟子たちを指して「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」と続けられます。

 イエス・キリストにとっての家族とは、天の神を父とし、その御心を行う者こそが神の家族である、というのです。

 もちろん、その当時のユダヤ人たちにも神の家族という考えがなかったわけではありません。彼らは自分たちを「アブラハムの子孫」として特別な民と考え(ヨハネ8:33)、そこに神の家族としてのアイデンティティがありました。ユダヤ人は自たちを「神の民」「神の子ら」と考え、神との特別な関係を強く意識していました。

 これに対して、イエス・キリストは、当時のユダヤ人が考えていた「神の民」「神の子たち」という概念を根本的に再定義なさいました。そこには二つの違いがあります。

 第一に、神の家族は血筋ではなく「神の御心を行う者」「神への信仰と従順をあらわす者」が神の家族であるという点です。

 第二に、そこから導き出される結論として、神の家族は特定の民族に与えられた特権ではなく、すべての人に開かれているということです。イエスは、「アブラハムの子孫であること」や「ユダヤ人であること」が神の家族の条件ではないことを明確にしています。

 では、これらのことから、現代を生きる私たちはどんなことを考えることが大切でしょうか。

 第一に神の家族はすべての人に開かれているというイエスの教えの言葉は、私たちにも希望を与えます。神の家族は、血縁や社会的な背景によるものではありません。そうではなく神の御心を行うすべての人に開かれているからです。

 もし孤独を感じていたり、実の家族との関係に悩んでいたりするなら、神の家族という新しいつながりがあることを覚えることが大切です。教会は、信仰による家族として、互いに支え合う共同体です。

 第二に神の御心を行うとはどういうことか、そのことを掘り下げて考えることが大切です。

 神の御心は、人が神を愛し、隣人を愛することです(マタイ22:37-39)。そこには大きな前提があります。それは私たちが神を愛する前に、神が私たちをこよなく愛してくださっているということです。この神の愛を信じ、この神の愛に応えて生きることが、神を愛することにつながり、隣人を愛することにつながります。

 神の家族に注がれた父なる神の愛を一心に受け取り、その愛の中で神に信頼して生きること、そのように生きることそのものが、神を心から愛することにつながります。神は人間からの見返りを期待して、私たちに愛を注いでおられるのではありません。

 そして神から受けた愛を周りに生きる人々へとアウトプットしていくことが神の家族にとどまり、その関係を深めていくことにつながります。特に教会は神の家族としての具体的な現れです。

 もちろん、教会に集められた神の家族が、どれほど神の愛に応えて、受けた愛を外へと向けることができるのか、完ぺきではないかもしれません。しかし、その完ぺきではない家族のメンバーに、変わることのない愛を注ぎ続けられる神がいらっしゃるので、この家族には希望があります。

 あなたがどこにいても、どんな過去を持っていても、イエス・キリストはあなたを神の家族の一員として招いておられます。

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