聖書を開こう

安息日と善き行い(マタイ12:9-14)

放送日
2025年2月20日(木)
お話し
山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:安息日と善き行い(マタイ12:9-14)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 私事の話ですが、先月、うっかり指を深く切ってしまいました。切れ味の鋭い刃物だったので、痛みはそれほどでもありませんでしたが、流れ出る血液のせいで、周りの人がびっくりするほどでした。その日は休日のため、どこも休診とわかっていましたから、とりあえず血さえ止まれば、医者に行くのは明日でも大丈夫と思っていましたが、思った以上に深い傷だったので、結局は救急センターに駆け込んだという話です。

 たぶん、こんな傷を見慣れた医者からすれば、命に別状もない怪我で、わざわざ救急センターに来るほどのことでもないと思われたかもしれません。しかし、そんな人のためにも休日・夜間を問わずに対応してもらえるのは、ただただありがたいとしか言いようがありません。

 さて、今日取り上げようとしている聖書の話は、前回学んだ箇所と同様に安息日が関わる話です。登場するのは片手の萎えた一人の男性です。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書12章9節~14節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

イエスはそこを去って、会堂にお入りになった。すると、片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」そしてその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、もう一方の手のように元どおり良くなった。ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。

 きょうの話のポイントは「安息日に病気を治すのは、律法で許されているのか」という問題です。おそらく、現代を生きるほとんどの人たちにとって、その質問はナンセンスに聞こえるでしょう。また、イエス・キリストの答えを聴くまでもなく、そんなことは人道的に考えて許されて当然と答えることでしょう。

 しかし、そういってしまえば身も蓋もないので、その当時のユダヤ教の人たちの立場で、まずはこの質問の意味を考えてみたいと思います。

 安息日をユダヤ人たちが重んじていたのは、いうまでもなく、それが十戒の中で厳格に定められていたからです。神がその日を聖別するようにと求めておられ、他の日とは違うようにその日を過ごすようにと命じられていたからです。

 当時のユダヤ人たちは、その日は、会堂へ行って神を礼拝し、そのために日常の仕事から離れることを厳格に守っていました。それはただ自分が仕事を控えるというばかりではなく、自分の家族や自分の配下にある使用人たち、さらには家畜に対してさえも、労働から解放されるように注意を払いました。

 ただ、安息日を厳守することに熱心なあまり、その日に何をしてはならないか、という議論がいつもついて回りました。「安息日に病気を治すのは、律法で許されているのか」という議論もその一つです。

 その当時のユダヤ人たちの伝統では、安息日には、基本的に医療行為をすることは禁じられていました。もちろん、命に関わる緊急性のある場合は例外でした。

 ではこのように答えが定まっていた問題をなぜあえてイエス・キリストに持ちかけたのでしょうか。福音書記者は、「人々はイエスを訴えようと思って」とその動機を記しています。というのは、前回取り上げた記事にも、イエス・キリストは安息日について、明らかにユダヤ人たちの伝統とは違う理解を持っていたからです。

 安息日の会堂に片手の萎えた人がいたことは、その場居合わせたファリサイ派の人々には、イエスの間違いをただす格好の機会でした。というのは、彼らの考えによれば、片手の萎えた人を癒さなければ緊急性は全くなかったからです。

 これに対して、イエス・キリストはユダヤ人たちが持っているもう一つの伝統に訴えかけました。それは、羊が穴に落ちた場合には、安息日であっても引き上げることは労働とはみなされなかったからです。イエス・キリストがおっしゃりたいことは、羊よりももっと価値ある人間が、安息日であることを理由に家畜以下の扱いを受けることが、正しいことなのか、という問です。

 このイエス・キリストの問いかけは、ただ安息日だけの問題ではありません。

 この時、イエス・キリストに質問を投げかけた人々の関心はどこにあったのでしょうか。片手の萎えたこの人を自分たちの議論のネタに使うだけで、この人について知ろうともしなければ、その病が癒されることを願おうともしているわけではありません。

 もしこの人たちが、安息日以外の時に、この片手の萎えた人のために癒しを願い、この人のためにいつも寄り添って生きてきたというのであれば、話もまた違ったでしょう。彼らは安息日に病気を癒すことは禁じられていると言いながらも、しかし、それ以外の日にこの人のために何か良いことをしてきたというわけでもありません。

 イエス・キリストはそういう人間の欺瞞をも指摘しているように思われます。

 安息日にはどんな善い行いであったとしても、してはならないと主張する人に限って、他の日にも善い行いなど関心がないことがあります。他人の善い行いを批判して、偽善者だとののしる人に限って、自分は善いことのために指一本貸すことがないことがあります。そういう欺瞞をイエス・キリストは見抜いておられます。

 質問者たちにとっては、どうでもよいこの片手の萎えた人を、イエス・キリストは最大の関心をもって見ておられます。だからこそ、「手を伸ばしなさい」とこの人に向かって声をかけられたのです。

 片手が萎えて動かないことが、安息日の議論にすり替えられてはなりません。神と人への愛が、安息日の労働の議論のゆえに、どこか遠くへ行ってしまってはならないのです。

 いえ、質問者たちは、本当は安息日についてさえも、真摯な思いでその日を過ごしていたとは思えません。なぜなら、イエス・キリストの答えと行いを見て、イエスを殺そうと相談を始めたからです。

 人を殺す相談は、普段の日でさえしてはなりません。そんなことはファリサイ派の人たちであれば百も承知であったはずです。しかし、普段の日にさえ許されないことを安息日に堂々とやってのけます。その人たちが、安息日について議論するのは全く説得力がありません。

 しかし、人のことを批判するのは簡単ですが、神への愛や人への愛を貫くことはいうほど簡単ではありません。けれども、簡単に放棄してしまってよいものでもありません。少なくもなすべき善い業を絶え間なく考え続けること、それは私たちに絶えず最善をなしてくださる神への愛と、隣人に対する愛へとつながって来るのです。

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