聖書を開こう

悔い改めの機会を逃さないために(マタイ11:20-24)

放送日
2025年 1月30日(木)
お話し
山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  悔い改めの機会を逃さないために(マタイ11:20-24)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 日常生活の中で、驚くような出来事に直面した経験は、誰にでもあると思います。しかし、同じようなことを何度も経験すると、それが当たり前になり、驚きや感謝の気持ちを失ってしまうことがあります。

 イエス・キリストが行われた奇跡も、当時の人々にとって最初は驚きでした。しかし、繰り返し目にするうちに、それが何を意味するのか、あまり深く考えることをしなくなったのではないかと思われます。

 イエス・キリストが行った奇跡は、ただ人々を驚愕させることが目的ではありませんでした。それは神が実現してくださる救いへの招きでした。それを受け入れなかったことこそ、人々が抱える深刻な問題でした。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書 11章20節~24節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない。しかし、言っておく。裁きの日にはティルスやシドンの方が、お前たちよりまだ軽い罰で済む。また、カファルナウム、お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである。」

 今お読みしました箇所には、非常に厳しい言葉が記されています。しかし、これは単なる非難の言葉ではありません。もし、非難することだけが目的であるとするならば、聞いた人々、とりわけ厳しい叱責を受けた町の住民たちは絶望するしかありません。

 イエス・キリストがこのことを語っておられるのは、真実な悔い改めへの招きでもあります。

 ここでイエス・キリストが名前を挙げておられるコラジン、ベトサイダ、カファルナウムは、ガリラヤ湖の周辺に位置する町々です。特にカファルナウムは、イエスの宣教活動の拠点ともなった町でした。ここでは数多くの奇跡が行われ、人々は直接キリストの力を目撃しました。しかし、それにもかかわらず、これらの町の多くの住人は悔い改めませんでした。

 対照的に、イエス・キリストは異邦人の町ティルスやシドン、さらには悪名高いソドムの町と比較し、もしこれらの町で同じ奇跡が起こっていたならば、彼らは悔い改めたであろうと語ります。ここには、神の恵みを当然のことと考え、それに応えようとしない人々への警告が込められています。

 そもそも、なぜここで名指しされた町の人々は、悔い改めることに対して、そんなに鈍感だったのでしょうか。

 この言葉の背景には、当時のユダヤ人たちの信仰意識があります。ユダヤ人たちは神に選ばれた民であり、アブラハムを自分たちの先祖に持っていることを誇りに思っていました。

 また唯一、神から直接律法を頂いていることも彼らの誇りでした。律法を通して罪の意識を誰よりも知っているはずの民であるはずでしたが、いつしか、律法を持たない人々の罪にばかり目が向くようになり、自分の罪と向き合うことが薄くなってしまったのでしょう。

 ある人たちは律法を守ることによって義とされると考えていましたが、そもそも律法を守ること自体が、罪ある人間にとってどれほどハードルが高いかを考えていなかったのかもしれません。それよりも選民であることの特権意識から、罪を軽く見積もっていたのかもしれません。「自分たちは神に選ばれた民であり、律法を持っているから大丈夫だ」という考えが強かったのでしょう。

 そうした思いは、イエス・キリストがなさった御業を見る目にも影響しました。確かにキリストがなさった数々の奇跡に対して、人々を驚きを隠しませんでした。しかし、そこに神の国の到来の証を見て取る人はほとんどいませんでした。

 洗礼者ヨハネはかつて、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と語り、「斧は既に木の根元に置かれている」と審判の差し迫っていることを警告しました(マタイ3:2,10)。

 キリストとともに到来した神の国が恵みの支配であると同時に、その御国に入るために真摯な悔い改めが必要であることを人々はすっかり忘れてしまっているようです。

 カファルナウムの住人は、イエス・キリストがそこに滞在されたことで、自分たちが特別な存在だと考えていたかもしれません。しかし、イエスは「天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ」と厳しく警告されました。特権意識や自信ではなく、神の前での謙遜と悔い改めこそが求められていたのです。

 この聖書の御言葉は、単に過去のユダヤの町々に向けられたものではありません。現代に生きる私たちにとっても大切な真理を語りかけています。

 私たちは、聖書を通してイエス・キリストの教えを知ることができます。人生を送る中で、私たちは神の恵みや導きを経験します。しかし、その恵みを当然のことと考え、悔い改めることなく生きるならば、イエス・キリストがコラジンやベトサイダの人々を叱責されたのと同じように、私たちも厳しい言葉を受けることになるでしょう。

 悔い改めとは、「方向転換」を意味する言葉です。もし私たちが間違った道を歩んでいると気づいたなら、素直に立ち止まり、神の前に悔い改めることが大切です。

 また、イエス・キリストがティルスやシドン、ソドムの町を引き合いに出していることからも、神の恵みはすべての人に開かれていることがわかります。かつては神に背を向けていた町の人々でさえ、もし福音を聞いて悔い改めるならば、救いにあずかることができるのです。たとえ、今までまことの神を知らず、遠く離れて生きてきたとしても、キリストの言葉に触れるこの時こそ、方向転換すべき時です。遅すぎるということはありません。

 今日の聖書の箇所では、イエス・キリストが悔い改めない町々を叱責された言葉を学びました。しかし、それは単なる裁きの言葉ではなく、悔い改めるための最後の招きでもありました。

 私たちも、神の御前に謙虚に歩み、恵みに対する応答として悔い改めることが求められています。もし、私たちが何かに固執して神の招きを無視しているならば、今日こそが悔い改める時です。神の恵みを当然のことと思わず、心を開いて受け入れましょう。

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