山下 正雄(ラジオ牧師)
メッセージ: 預言者を迎える(マタイ11:7-19)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
この何年間かで「フェイク」という言葉をあちこちで耳にするようになりました。「信頼できる情報」を見分けることがとても難しい時代になったように感じます。
テレビや新聞のニュース、インターネットで目にするする書き込み、あるいは身近な友人や家族からのアドバイスなど、情報源はそれこそ様々です。しかし、その真実性を見極めるのは簡単ではありません。
同じように、聖書の時代にも、人々は神からのメッセージを本当に信じるべきかどうか、迷いながら判断することもありました(士師記6章のギデオンの例など)。あるいは、神からではない託宣に何の疑いもなく飛びつく人々もいました(エレミヤ28章の預言者ハナニヤの例など)。
今日の箇所では、イエス・キリストが洗礼者ヨハネについて語り、人々がどのように神の使者を迎えたかを考えさせられる場面が記されています。この話を通して、私たち自身が神からのメッセージをどのように受け入れるべきかを学んでいきたいと思います。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書 11章7節~19節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ。はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである。耳のある者は聞きなさい。今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった。』ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」
今日取り上げたこの箇所の背景には、洗礼者ヨハネが捕らえられたという出来事があります(マタイ11:2)。ヨハネはメシアの到来を予告し、人々に悔い改めを呼びかけました。しかし、ヨハネのメッセージは多くの人にとって受け入れがたいものであり、特に権力者たちには脅威と映りました。
イエス・キリストはこの状況を受けて、群衆に洗礼者ヨハネの本当の姿と、ヨハネが果たした重要な役割について語り始めます。「風にそよぐ葦」や「しなやかな服を着た人」とヨハネが異なることを強調することで、洗礼者ヨハネが妥協せずに神の真理を語り続けた預言者であることを示しています。ヨハネは風にそよぐ葦のように人の意見になびいたり、誰が着ても着心地がいい服のように、聞く人にとって心地よいことだけを語った人ではありませんでした。
ヨハネは単なる偏屈な男ではなく、イエス・キリストは洗礼者ヨハネを「預言者以上の者」「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった」と言い切っています。
イエス・キリストは続けて、人々が神の使者を迎える際にどのように反応したかについて厳しく指摘します。
「この時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった。』ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。」(マタイ11:16-19)
ここでイエス・キリストは、人々が預言者のメッセージに対してどれほど頑なであったかを描写しています。民衆たちはヨハネの厳格な生活を非難し、逆にイエスの親しみやすさをも批判するという矛盾した態度を示しました。民衆にとってメッセージを語る者の姿勢や生活態度は神からのメッセージを聞かない口実に過ぎませんでした。メッセージは耳に届いていても、理由を探してはそれを拒んでいたということです。
この箇所を読むとき、私たちはまず自分自身の態度を問い直す必要があります。私たちは神からのメッセージをどのように受け入れているでしょうか。
現代においても、神の言葉を語る人々や聖書のメッセージに対して、様々な理由で耳を塞ぐことがあります。「この話は自分には関係ない」「時代遅れだ」「自分の人生には影響しない」といった言い訳をしては、心を閉ざしてしまいます。しかし、神の言葉はいつの時代にも、すべての人に向けられた真理です。それを拒む理由を探すのではなく、まず心を開いて聞く姿勢を持つことが大切です。
また、神から遣わされた者が語る言葉に注目するだけでなく、その背後にある神ご自身の御心を求めることも重要です。預言者やイエス・キリストの言葉に耳を傾けることは、神の愛と計画全体を理解し、受け入れる第一歩です。
最後に、私たちが信仰者としてどのように生きるべきかを考えましょう。イエス・キリストが指摘した人々の態度は、私たち自身の心の中にも潜んでいるかもしれません。
日々の生活の中で、神の声を聞くために時間を取ることは簡単ではありません。しかし、祈りや聖書の黙想を通して、神との関係を深めていくことが大切です。また、神の言葉に従う勇気を持つことも必要です。時に、それが世の価値観と衝突することがあるかもしれません。しかし、神の真理に立ち続けることが、私たちの信仰を強める力となります。
今日のメッセージでは、マタイによる福音書の11章7節から19節を通して、「預言者を迎える心」について考えました。洗礼者ヨハネの姿と人々の反応を見つめる中で、神の言葉をどう受け止めるべきかが浮き彫りになりました。
私たちも、神からのメッセージに耳を傾けると同時に、それを生活の中で実践していくことを心掛けましょう。そして、預言者を迎える心を持ち、神の真理に生きる者となりましょう。