聖書を開こう

恐れるな、 神の愛に守られる私たち(マタイ10:26~31)

放送日
2024年12月19日(木)
お話し
山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  恐れるな、 神の愛に守られる私たち(マタイ10:26~31)

ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

この番組を長く聞いてくださっている方には、以前にもお話したことがあるかもしれません。

実は二〇世紀以降、キリスト教徒が迫害で命を落とした数は、ローマ時代や日本のキリシタン時代を上回ると言われています。信じられないと思われるかもしれませんが、現代においても、多くの人々が信仰のために命をかけています。こう聞くと、「それなら信仰なんて持たないほうがいいのではないか」と恐れを抱く方もいらっしゃるでしょう。

しかし、きょうの聖書の箇所では、イエス・キリストが「恐れてはならない」と力強く語られています。いったいどのような意味が込められているのでしょうか。ご一緒に考えてみたいと思います。

それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書 10章26節~31節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」

この箇所は、イエス・キリストが12人の弟子たちを派遣する場面で語られた一連の言葉の一部です。弟子たちはこれから厳しい伝道の旅に出ようとしています。しかし、イエス・キリストは弟子たちに恐れるなと励まされます。その理由を三つに分けて見ていきましょう。

第一に「覆い隠されたものは現れる」ということです。

イエス・キリストは「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」と語られます。これは、福音の真理が最終的には隠し通せないものであることを意味しています。

私たちは時々「目立たないようにしていれば問題は起きないだろう」と思ってしまいがちです。人とぶつかって軋轢に苦しむよりは、大人しくしている方がずっと安全だと考えてしまいます。

弟子たちも行く道々で同じような気持ちになったかもしれません。しかし、目立たないように何もしないのであれば、派遣される意味がありません。そればかりか、福音は隠せるものではありません。隠そうとしても、神の計画によって必ず明らかにされます。それならば、むしろ勇気を持って語るほうがずっと賢い選択です。

もちろん、前回の学びにもありましたが、蛇のような賢さと鳩のような素直さで福音の宣教に励むことは大切です。

イエス・キリストは「わたしが暗闇で言うことを明るみで言いなさい」とおっしゃいます。これは、弟子たちに預けられた救いのメッセージを大胆に宣言するようにとの命令です。私たちが信じる福音には、それほどの力があります。たとえ一時的に反発を受けることがあっても、最終的には神の御業が勝利を収めるのです。

実際、歴史を振り返ると、強大なローマ帝国でさえキリスト教を根絶させることはできませんでした。それどころか福音は国境を超えてますます世界へと広がっていきました。

恐れてはならない第二の理由は、人を恐れるよりも、もっと心を向けるべきお方がいらっしゃるからです。

イエス・キリストは弟子たちにこうもおっしゃいました。

「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」

迫害を受けることや、命を脅かされることは確かに恐ろしいことです。しかし、主イエスは私たちに、恐れるべき対象を間違えないように」と教えておられます。

ここで思い出していただきたいのは、神が私たちの魂の主であるということです。体を傷つけることができる人間よりも、魂も体も支配する力を持った神の方がはるかに偉大で、畏れ敬うべき存在です。

このことをイエス・キリストはマタイによる福音書16章26節で次のように語られました。

「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」

地上での安全や名声を求めるあまり、永遠の命を失ってしまうようなことがあっては本末転倒です。だからこそ、私たちは人の目や評価を恐れるのではなく、神に従うことを優先すべきなのです。

後に弟子たちは捕らえられて、イエスの名によって語ることを固く禁じられたとき、反論してこう言いました。

「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」(使徒言行録4:19-20)

真に畏れ敬うべきお方を知っていることこそが、私たちをこの地上の恐れから解き放つのです。

私たちがこの地上にあって恐れる必要がない第三の理由は。神が私たちを守っておられるからです。

イエス・キリストは私たちを励ますために、こんな具体的な例えを用いられました。

「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ地に落ちることはない。」

一アサリオンは当時の小銭で一番価値の低い金額でした。しかし、一羽の雀の価値はそれよりももっと低く、二羽で一アサリオンにしかなりませんでした。時には五羽で二アサリオンという非常に安い値段がつけられることもありました(ルカ12:6)。それにもかかわらず、天の父なる神はその雀一羽一羽の命を気にかけておられると言うのです。雀でさえそうならば、神のかけがえのない存在である私たち人間に対して、どれほど深い愛を注がれていることでしょう。

さらに「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」とキリストはおっしゃいます。この言葉は、私たち一人ひとりがどれだけ神にとって大切であるかを示しています。髪の毛一本にまで関心を持たれる神が、私たちの人生の歩みを守られないわけがありません。

イエス・キリストが語られた「恐れるな」という言葉には、深い愛と配慮が込められています。私たちは試練や困難に直面すると、どうしても恐れを抱いてしまいがちです。しかし、わたしを知っておられる神が共にいてくださるのですから、どんな状況にあっても、神の守りの中で歩むことができます。

このイエス・キリストの言葉を通して、ぜひ覚えていただきたいことはこのことです。私たちは神の愛に包まれ、守られています。そして、私たちの魂を託すべきなのは、地上の人間ではありません。わたしを造り、愛してやまない永遠の神にこそ託すべきです。そもそも、この身も魂も、神のものなのですから。この神に信頼し、恐れずに前に進みましょう。

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