
唐見敏徳(忠海教会牧師)
メッセージ:主の日の喜びと恵み
【高知放送】
【南海放送】
「キリストへの時間」をお聴きの皆さん、おはようございます。忠海教会の唐見です。
私が牧師をしている忠海教会は、広島県竹原市にあります。今年の9月23日、秋分の日に、忠海教会を含めて、広島県にある日本キリスト改革派教会の4つの教会の信徒が集まりました。毎年この時期に行っている、定例の集会です。今回は、教会の日曜日の礼拝をみんなで守るために必要なことについて、特に障がいを持っている方やご高齢の方がともに礼拝に集うために必要なことについて、講演を聞き、話し合う時を持ちました。
一般的に、キリスト教の教会では、日曜日の朝に礼拝をささげます。日曜日に教会でささげる礼拝は、「主の日の礼拝」といわれます。救い主イエス・キリストが、十字架の死の後、日曜日に復活されたからです。聖書が教える大切な言葉の中に、「安息日を心に留め、これを聖別せよ。」(出エジプト20:8)があります。十戒の四番目にあたるもので、安息日をどのように捉え、どのように過ごすのかについて教えています。
安息日の由来は、旧約聖書の最初の書物「創世記」の最初の記事に記されています。神がこの世界を六日間で創造されたこと、そして、「第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。」(創世記2:2)とあります。安息日は、もともと週の終わりの日、土曜日なのですが、キリストの教会では、イエス・キリストが復活された日、すなわち、週の初めの日曜日を「主の日」と呼び、キリスト教の安息日としています。
聖書は、安息日を特に聖く過ごすように教えているわけですが、実際、どのように過ごしたらよいのでしょうか。その中心的、かつ具体的な行為が、神を礼拝することなのです。神を礼拝することは、つまるところ、「神との交流」です。礼拝には、祈り、賛美、聖書朗読、説教などの要素がありますが、それらはすべて、神と人との交流の在り方と言えます。
人間は誰一人、この世界と自分自身の内にある罪から逃れることはできないこと、そして内包する罪のゆえに、自らの力で聖くなることは決してできないことを、聖書は語ります。自らの力で聖くなることのできない人間は、存在そのものが聖なる方である神によって聖めていただくよりほかありません。
旧約聖書の中に、「詩編」と呼ばれる書物があります。その中にひとつだけ、「安息日に」という表題が付けられた詩編があって、次のように始まります。「いかに楽しいことでしょう 主に感謝をささげることは いと高き神よ、御名をほめ歌い 朝ごとに、あなたの慈しみを 夜ごとに、あなたのまことを述べ伝えることは 十弦の琴に合わせ、竪琴に合わせ 琴の調べに合わせて。」(詩編92:2-4)
この詩編は、旧約聖書の時代、実際に安息日の礼拝に用いられていたもので、当時の安息日の礼拝の様子を伝えています。ここで表現されているのは、「安息日、あるいは主の日の礼拝が、いか素晴らしいか」ということです。そこでささげられる感謝と賛美、語られる神の言葉が、そこに集う人々にどれほど大きな喜びであるかが表現されています。
わたしたちは、この喜びを主の日の礼拝で味わうことができます。毎週日曜日に教会でささげられる礼拝で、二千数百年以上前に聖書に記されたものと同じ恵みを、わたしたちはいただくことができるのです。聖書が語るまことの神は、あなたにこの喜びと恵みを与えようと、主の日の礼拝に招いておられます。
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