
山下 正雄(ラジオ牧師)
メッセージ:死の影を超える希望
【高知放送】
【南海放送】
おはようございます。あなたの心の健康を応援する山下正雄です。
今日は、「死」と「希望」という、誰もが心のどこかで向き合うテーマについてお話しします。
忙しい毎日の中で、つい考えないようにしていること、それが「死」かもしれません。でも、ふとした瞬間に、その重みが心の奥にずしりとくることがあります。身近な人の訃報に触れた時に感じる、ぽっかりと空いたような心の空白。ニュースで悲惨な事故を知った時の心のざわつき。あるいは、健康診断の結果を見た時に、自分の人生に限りがあることを突きつけられたような感覚。誰の心にも、こんな風に「死」が影を落とす瞬間があるはずです。
「死の先には何があるのか」…この問いは、人類にとって普遍的で、決して軽く扱えるものではありません。多くの宗教や哲学がこの問いと向き合ってきましたが、キリスト教が提示する中心的な答えは、単なる慰めではなく、「死を乗り越える希望」です。
イエスはこう語りました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ11章25節)。この言葉を聞いて、「でも、そんなこと簡単に信じられない」と思うかもしれません。愛する人を失った悲しみは癒えず、深い空洞が心に残るのは当然です。
聖書も、悲しむこと自体を否定しません。「悲しむ人々は、幸いである」(マタイ5章4節)とあるように、悲しみは、私たちの心からの正直な反応として、大切にされるべきものです。しかし同時に、キリスト教は、その悲しみの中に留まるのではなく、その先にある神からの慰めと、新しい命の約束を告げます。
「復活の希望」は、物質的な「生き返り」だけを意味するものではありません。それは、失われたものが完全に消えてしまうのではなく、愛や思い出といった大切なものが、神の中で永遠に生かされる、という信仰に基づいています。この希望は、別れを乗り越える力となり、故人との記憶を薄れさせるのではなく、むしろ、その記憶を尊び、そこから生まれた愛を永続させる助けとなります。
現実の生活の中で、私たちはしばしば、死への恐れや不安に襲われます。そんな時、信仰は、「あなたは一人ではない」という確かな支えを与えてくれます。祈りの中で、自分の恐れや悲しみを神に打ち明け、教会や仲間の手を借りることで、心の重荷は少しずつ分かち合われます。希望は、瞬時に訪れるものではありませんが、一歩ずつ歩み続ける中で、静かに深まっていくものです。
悲しみの現場では、具体的な心のケアも大切です。記念の集いを開くこと、写真や思い出を共有すること、日常の中で故人を思い出す小さな儀式を作ること。これらは、悲しみを整理する助けになります。また、周囲の人は「何と言えばいいか分からない」と躊躇するかもしれませんが、ただそばにいること、そして静かに話を聞くことが、何よりの支えになります。
教会や地域のサポートグループは、同じような悲しみを経験した人々が集い、互いに支え合う場所になり得ます。こうした過程を経て、少しずつ生きる力を取り戻す中で、復活の希望が、静かに心に根を張っていくことを願っています。
もし今、深い悲しみの中にいる方がいらっしゃるなら、どうか一人で抱え込まず、周囲に助けを求めてください。そして、もしよければ、あなたの心の中で、「死は、あなたの人生や愛の終わりではない」という言葉を、そっと繰り返してみてください。その言葉が、あなたの心に小さな光をともすことを、私は心から祈っています。
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