
牧野信成(長野まきば教会牧師)
メッセージ:聖書とキリスト~苦難のしもべキリスト
「苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように 毛を刈る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり 命ある者の地から断たれたことを。」イザヤ書53章7-8節
おはようございます。長野まきば教会の牧野信成です。
イザヤ書53章にある「苦難の僕の歌」は、新約聖書で証言されるイエス・キリストへと大きく飛躍するステップとなる、偉大な御言葉です。
「イザヤが告げた苦難の僕はいったい誰を指すのか」は、学者たちの間でも議論があります。おそらくモーセであろう、という有力な説があります。また、エレミヤではないか、という主張も、新約聖書を参照してなされることがあります。どちらも神から派遣されて、神と民との間に立って重要な注解を果たした預言者・僕でした。
また、もう一つ重要な見解は、これが神に選ばれた民イスラエルを、一人の人格にたとえたものという説です。ユダヤ教の伝統にはそのような解釈がある、と聞いたことがあります。
すると、そこにモーセもエレミヤも含まれて、しかし、それは個人の特別な体験について記されたものではなく、エジプトで奴隷にされた経験や、戦争によって神との契約を破った挫折の経験など、歴史の中で試練を受けて来たイスラエル民族がたどり着いた境地ではないか、と言われます。
神に選ばれて、神の祝福を世界に広げる働きは、栄誉なことに違いありませんが、それを実際に生きることは、罪ある人間にはあまりに苛酷な道でした。新約聖書が証言するのは、イエス・キリストが、苦難の僕であるそのイスラエルの一人として、十字架の道を進まれ、すべての人の罪を負われたことです。









