
牧野信成(長野まきば教会牧師)
メッセージ:聖書とキリスト~聖書の中心をなす神の心
「彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」マルコによる福音書12章28-31節
おはようございます。長野まきば教会の牧野信成です。
旧約聖書は、ユダヤ人からは「トーラー」と呼ばれて、ユダヤ民族の信仰と生活の基準となりました。しかし、モーセの律法を生活に適用するにも、様々な解釈が必要になり、律法を教える教師たちによって、いくつもの立場が生じます。
そこで、ひとりの真面目な聖書学者が、イエスに第一とするべき掟は何か、と質問しました。そこでイエスがお答えになったのは、申命記にある「全身全霊をもって神を愛せよ」(申命記6:5参照)という掟でした。これは、ユダヤ人が毎日祈る祈りの言葉に含まれた聖句です。
それに加えて、イエスは、レビ記19章にある御言葉を引用して合わせます。「隣人を自分のように愛しなさい」(レビ19:18参照)。誰もが自分の生活のことに気を配って毎日を生きているけれども、隣人のことにも十分気を配って生きることが大切です、と教える律法です。
質問した聖書学者は、これに満足したようですが、これはまさしく、イエスの生き方そのものです。「神を愛すること」と「隣人のために尽くすこと」を一つにして、イエスは十字架への道を歩まれました。
自分本位な信仰の正しさに凝り固まった人は、こうした道を選ぶことができません。隣人を押しのけることが神を愛することだ、と思っているからです。イエスのおられるところに教会が立っているかどうかが、今の世界で問われているのではないでしょうか。









