キリストへの時間

あなたの心はどこにありますか

放送日
2025年10月26日(日)
お話し
久保浩文(松山教会牧師)

久保浩文(松山教会牧師)

メッセージ:あなたの心はどこにありますか

【高知放送】

【南海放送】

 おはようございます。愛媛県松山市にある松山教会牧師の久保浩文です。

 あなたは、死後の世界について考えたことがあるでしょうか。「死」と言う言葉を耳にして、「朝から縁起でもない」とか、「そういうことは、もっと年を取ってからゆっくりと考えたらよいことであり、今は、一度しかない人生を大いにエンジョイする、謳歌しないと損をする」と考えておられるかもしれません。

 しかし、「光陰矢の如し」との諺のごとく、瞬く間に時は過ぎ去り、今年も早11月を迎えようとしています。一度限りの人生を、悔いのない、充実したものにしたいと誰しもが願っています。そのためには、私達は、この地上にある「今」という時を、その日その日をどのように過ごすか、何に生きがいと喜びを見出して生きるのか、また今、手にしている物をどのように用いていくのかについて、深く考える必要があります。

 主イエス・キリストが語られたたとえ話の中に、二人の人が出てきます。一人は金持ちで、「いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らして」(ルカ16:19)いました。紫の衣は最高級の服で、柔らかい麻布も舶来品の高級品です。それらを、特別な日だけでなく、いつも着ることができるのは、余程の金持ちでしょう。彼は、毎日贅沢に宴会をして、怠惰に遊び暮らしていました。

 もう一人は、この金持ちの門前に横たわっている、「ラザロというできものだらけの貧しい人」(ルカ16:20)です。彼は、金持ちの「食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思って」(ルカ16:21)いました。「食卓から落ちる物」とは、金持ちが手拭き代わりに使って捨てたパンです。ラザロは、それを食べたいと望んでいましたが、それもかなわず、ほかに恵んでくれる人もなく、その日その日をしのいでいました。しかしラザロは、自分の置かれている境遇を嘆いている様子もなく、金持ちを責めるのでもなく過ごしていました。

 やがて、貧しい人ラザロは死にました。この金持ちも死にました。「死」は、すべての人に平等に訪れます。しかし、死んでから後、この二人の置かれた場所、受けた扱いには、歴然とした差がありました。貧しい人ラザロの魂は、天国の宴席に連れて行かれました。金持ちの魂は、陰府、すなわち地獄において、炎の中でもだえ苦しむことになりました。

 ラザロと金持ちとの間には、生前の生活と死後の生活との逆転が生じました。これは、生前に金持ちであったことが悪くて、貧しかったことが良い、ということではありません。それは、二人の生前の「心」のありようによるのです。私達は、目に映るところ、すなわち外見によって、人や物事を判断しますが、神は、その人の心の奥深いところまでご存知です。

 この金持ちは、生きている間に、自分の欲しい物、望む物は、すべて手に入れたことでしょう。しかし彼は、これらのすべてが神から与えられたものとは思わずに、自分の力と手の働きでこの財産を築いた、と思っていました。そして彼には、神への感謝の思いは微塵もありませんでした。

 一方ラザロは、自分がどのような境遇の中に置かれても、生涯を通じて、神への信頼と信仰を失いませんでした。ラザロの生涯は、人間的な目からは決して幸福なものではなく、むしろ悲惨なものでした。しかし、ラザロは、神への信仰のゆえに不平不満を漏らすことなく、神に信頼をして生きたことで、死後、祝福を受けました。

 私達の死後の運命は、「今」という時をどう生きるかで決まります。神を認めず、信ぜず、自己中心の生き方をするか、どのような境遇にあっても、「心」を神に向けて、神を知り、信じて生きているかどうかです。

 聖書には、神について、主イエスについて、記されています。あなたも是非、聖書を紐解いてみませんか。聖書はこう言っています。「神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。」(ヤコブ2:5)

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