久保浩文(松山教会牧師)
メッセージ:確かな老後の保障とは
【高知放送】
【南海放送】
おはようございます。愛媛県松山市にある松山教会牧師の久保浩文です。
今年も早、10月を迎えました。去る9月には、敬老の日がありました。日本社会の高齢化がいわれて久しくなります。長年勤め上げた会社を定年で退職しても、再雇用や嘱託契約の方法で、ある程度の年齢まで働く方がほとんどです。誰もが、幸福で安定した老後を送りたいと願いますが、現実は厳しいものがあります。
元気なうちは働くのが生きがい、という方もあれば、ある程度の年齢まで働いて退職をして、それから第二の人生をのんびりと優雅に過ごしたい、という方もおられるでしょう。その時に、私達は、安定した何不自由のない老後を送るための保障を何に求めるでしょうか。老後の資金に2千万円が必要である、と騒がれた時もありました。利回りの良い貯蓄、債券、信託に求めるでしょうか。
いずれにせよ、この地上にある間、「物質的な備え」が十分であれば、それだけで、老後の生活が半ば保障されたかのような錯覚に陥ります。しかも、自分自身の平均余命に合わせて、それに見合う蓄えが出来れば、後は憂いなし、万全の備えが出来たかのように思い込んでしまいます。しかし、私達の老後は、貯蓄や財産によって保障されるでしょうか。
主イエス・キリストは、人の命は財産によっては保障されないことを教えるために、一つのたとえ話を語られました。ある金持ちの畑が豊作でした。作物をしまっておく場所が足らなくなりそうです。そこで彼は、今までの倉を壊して、さらに大きな倉を建てて、そこに将来に備えて、たくさんの穀物や財産をしまい込んで、「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」(ルカ12:19)と自分に言い聞かせました。
すると神は、この金持ちに、「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」(ルカ12:20)と言われました。この金持ちのように、私達人間の命は、財産によって保障は出来ません。いくら有り余るほど豊かな物を蓄えてはいても、それが、その人の命の長さ、寿命を保証するのではありません。
死は、病気だけでなく、災害や事故など、思いがけなく襲ってくる場合もあります。よくニュースで見聞きするように、本人はおろか、家族も予期しなかった突然の事故や事件に遭遇して、貴い命を落とされる方もいます。
私の母方の曽祖父は、かつて私鉄の保線係として、線路の下にバラストと呼ばれる石を敷く仕事をしていました。ある朝、家族に「行って来ます」といつも通りの挨拶をして、職場に行きましたが、それが最後の言葉になりました。数時間後に、線路を点検中に事故に遭い、頭部を負傷して、数日後に、あっけなく世を去りました。まだ37歳の若さでした。曽祖母は、女手一つで苦労して、私の祖母を含めて、4人の娘を育て上げました。
主イエス・キリストは、「人の命は財産によってどうすることもできないからである」(ルカ12:15)と言われました。これは、「人の命は財産からは出て来ない」ということです。私達は、様々な老後の保障や蓄えがあると、それに比例して、自分の命、寿命も長くなるかのような思いになります。この金持ちは、自分の命は自分の所有物であり、自分自身の意志で自由に支配出来るかのように思い込んでいました。
さらに彼は、万物を造り、支配しておられる神が、私達をこの地上に生まれさせ、命を与え、生かして下さっていることを、少しも考えていませんでした。私達は、たとえ自分の命とはいえ、自由自在にすることは出来ません。この金持ちのように、「今夜、取り上げられる」かもしれません。
私達の命も魂も、本来の所有者は、神です。私達は一時期、この地上に神から命を預かり、生かされているのです。まず私達は、神に心を向ける、神の前に富むことにより、その日その日を神に委ねて、神によって生かされていることを確信することが出来るのです。
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