藤井真(千里山教会牧師)
メッセージ:神様のまなざしの中で
【高知放送】
【南海放送】
おはようございます。千里山教会の牧師、藤井真です。
イエス・キリストは、ある時、一つのたとえ話をお語りくださいました。そこに登場するのは、「ファリサイ派」と呼ばれる人です。ファリサイ派…それは自他共に認める立派な信仰者でした。
彼が、神殿で次のような祈りをささげていたというのです。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」(ルカ18:11-12)
「私はあのような人間ではない」という否定の言葉を、幾度も繰り返します。そして、今度は、「私は、他の人たちとは違って、このようなことをちゃんとすることができる立派な人間です。」と、自分を肯定する言葉を重ねるのです。
「自分はいったいどのような人間なのか」…ファリサイ派のこの人は、他人と比べることによって、自分の姿を見出しました。他人を見下すことによって、いかに私が立派で、尊い存在であるかを明らかにしようとしました。
一方、もう一人の人が、祈りをささげるために神殿に上ってきます。それは、「徴税人」と呼ばれる人でした。同胞のユダヤ人から税金を集める仕事をしていました。しかも、背後に、ローマの権力があることをいいことに、必要以上のお金を徴収し、その差額を自分の懐に入れていたのです。
当時、「罪人」といえば、誰もがまず徴税人のことを思い浮かべました。「お前は罪人の中の罪人。そんな生き方をしていて恥ずかしくないのか。」という人々の冷たい声と視線を感じながら、この徴税人は生きていたのでしょう。あるいは、周りの声をいちいち気にしていたら生きていけないと思って、我が道を突き進んでいたのかもしれません。
でもある時、周りが自分をどう見ているのか、自分が自分をどう見ているのか、ということよりも、もっと大きなまなざしが、自分を包み込んでいることに気づかされました。それが、「神様のまなざし」です。私はいつも神様の前で生きている存在であることを知った時、いかに自分が罪深い存在であるかに気づかされました。
徴税人は、胸を打ちながら祈るのです。神様だけを見つめて祈るのです。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」(ルカ18:13)徴税人は、神様だけしか見つめていません。神様に見つめられている自分しか見ていません。そこに大きな恐れを抱きながら、でも、そこにしかない神様の赦しを信じて祈るのです。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」イエス様は、たとえ話をお語りになった後、「神様の救いにあずかったのはこの徴税人だ」とおっしゃいました。
人は誰もが、「自分は尊い存在」だと信じて生きたいのだと思います。たとえ、何かを成し遂げることができなかったとしても、誤解を恐れずに言えば、たとえ救いようのない罪を犯したとしても、「私は神様からいのちを与えられた尊い人間なのだ」と信じたいのです。
でも、どこかでその尊さを、自分で造り上げなければ納得できないようになりました。自分で造り上げることができないと判断したら、他人を見下すことによって、自分が少しでも高いところに立っているのだと思い込むようになりました。そのようにして生きている自分の姿が、本当は美しくないとどこかで分かっていながら、それをどうすることもできずに、ここまで生きてきたのです。
でも、神様は、いつも待っていてくださいます。あなたが神様のもとに行くことを。ファリサイ派であっても、徴税人であっても、神様は、罪人である一人ひとりを、心から愛しておられるからです。
人にどう見られるか、人をどう見るか…そのことによって、一喜一憂する人生ではなく、神様のまなざしの中に立つ自分を見つめる時、人は、本来の尊さに気づくことができる。そのことを、イエス様はここで告げていてくださるのです。
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