キリストへの時間

喜びへの招き

放送日
2025年9月7日(日)
お話し
藤井真(千里山教会牧師)

藤井真(千里山教会牧師)

メッセージ:喜びへの招き

【高知放送】

【南海放送】

 おはようございます。千里山教会の牧師、藤井真です。

 私は、両親がクリスチャンということもあって、幼い頃から教会で育ってきました。学校も幼稚園から中学校まで、ミッションスクールにずっと通っていました。日曜日だけでなく、毎日が神様を礼拝する生活です。私にとっては、とても幸いな時間でした。

 若い時は、それほど大きな試練を経験しなかったという理由もあるかもしれませんが、神様の存在を疑うとか、神様に不平不満を抱くということは、まったくなかったと思います。素直に、神様、イエス様を信じていました。

 高校生になった時、私は「信仰告白」をしました。神様と教会の前で、公に信仰を言い表し、教会の働きをこれまで以上に積極的に担っていく、そのことを誓約するのです。でも私は、幼い頃からイエス様を信じていましたから、改めて「イエス様を信じます」と言っても、自分がどのように変わるのか分かりませんでした。

 その時、ある牧師から、「クリスチャンになると、生きることが喜びになるよ。」と教えていただきました。しかも、その喜びというのは、普通、喜ぶことができないようなところで、なお喜ぶことができる、そのような不思議な喜びだ、というのです。イエス様を信じても、自分がどのように変わるのか、十分に分かっていませんでしたが、その牧師の言葉を聞いて、胸が踊るような思いがいたしました。

 あれから28年の時が経ちました。色んなことを経験しました。進路のことで悩んだり、牧師になる志を与えられたり、途中で大きな病を患ったり、結婚して、子どもが与えられたり…。でも、絶えず心の中にあったのは、「喜び」ということでした。イエス様のことを信じながらも、生きることの意味を見失ってしまう。それほど大きな試練の中にあった時も、どこかでいつも、「喜び」ということが引っかかっていました。

 「こんなに苦しいのに、こんなに悲しいのに、喜ぶってどういうことだろう。」…そんなことばかりよく考えていました。「神様、こんなに辛いのに、喜ぶってどういうことですか?教えてください!」…そのように、自然と祈りの言葉になっていたのだと思います。

 聖書の中に、次のような言葉があります。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(1テサロニケの信徒5:16-18)これも、不思議な言葉ですね。

 「いつも喜んでいなさい」と命じているのですけれども、「喜び」というのは、誰かに命令されて生まれるものでしょうか。「喜ぶ」というのは、自分で見出すもの、自分の力でつかみとるものではないでしょうか。でも神様は、「喜べ!」とお命じなることがおできになります。しかも、私たちが喜ぶことができる時だけ喜びなさい、嬉しい時だけ喜びなさい、というのではありません。「いつも」喜んでいなさい、というのです。

 いつも喜んでなどいられない、という人もいるかもしれませんが、でも、どうでしょう。もし、私たちがいつも喜んで生きられるとしたならば、こんな素晴らしい人生は、他にないのではないでしょうか。悲しみを悲しみとして受け止めつつも、なおそこで、その悲しみに打ち勝つ喜びに生きることができたなら、こんなに素晴らしいことはありません。

 「いつも喜んでいなさい」と、神様はおっしゃってくださいました。ということは、私たちが、いつも喜んで生きることができることを、神様は、約束してくださっているということでもあります。その約束が、イエス・キリストというお方の中にはっきりと示されました。神様がイエス様をとおして与えてくださる喜びは、罪と死の力を打ち砕いて、私たちに与えられます。試練の中にあっても、それを受け止めつつ、それに立ち向かう勇気が与えられます。

 私が置かれている環境は、依然として厳しいのだけれども、神様が共にいてくださるから、生きていくとができる。神様がいつも御声を聞かせてくださるから、私は生きられる。そのように言うことのできる、不思議な、しかし、確かな喜びを、神様は、あなたにも与えてくださるのです。

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