石川亮(芸陽教会牧師)
メッセージ:罪って、何なの?
【高知放送】
【南海放送】
おはようございます。高知県安芸市本町2丁目森澤病院裏手にある芸陽教会牧師、石川亮です。
今週もまた、この放送をお聞きくださるあなたと共に、御言葉の恵みにあずかることができることを嬉しく思います。
私が教会に通うにようになってから、いくつかのことがなかなか理解できませんでした。その中で、最も理解に苦しんだのが、「罪」です。礼拝でなされる説教で、しばしば「あなたは罪人です。イエスを信じれば、罪から救われます。」と語られます。教会へ通い出した当初、この言葉を聞き、「はぁ、犯罪をしたわけでもないのに、罪人ってなんやねん。犯罪をしていないのだから罪なんて無いし。」と思っていました。
日曜学校や教会学校、あるいは、ミッション系の学校に通っていたなら、罪の本当の意味を理解することができたのかもしれません。しかし、教会学校やミッション系の学校に通ったことがなく、家族にキリスト者がいない私にとって、「罪」と言われ、イメージができることは、「犯罪」でした。また、仏壇と神棚がある家に育った私にとって、「天国に行く」とは、犯罪をせずに、多少の良いことをして生きていければ行ける、というものでした。
しかし、教会では、「罪が赦されなければ、天国へは行くことができない。」と言われます。犯罪をしていない自分が罪人とされる「罪」とは何だろう、と思いながら、礼拝に出席し、説教を聞いていました。礼拝に出席し続けていくうちに、罪を段々と理解することができるようになりました。
聖書には、罪について色々なことが記されています。その中でも、人の罪の根本が示されているのが、創世記に記されている、アダムとエバが罪を犯し、人が堕落する場面です。神は、人をエデンの園に置き、園を耕し、管理する役目を与えました。そこにある木の実は食べて良かったのですが、「善悪の知識の木」になる実を食べることは、神から禁じられていました(創世記2:15-17参照)。
ある日、蛇が、アダムとエバのところにやってきます。蛇はエバに、「禁じられた木の実を食べても大丈夫だよ」と言い、彼女が木の実を食べるように誘惑します。エバは木の実を取り、アダムにそれを渡し、二人は、禁じられた木の実を食べてしまったのです(創世記3:1-6参照)。
二人は、神から禁じられていた木の実を食べ、神の命令を破り、罪を犯したのです。聖書に記されている「罪」と訳されているヘブライ語の意味は、「的外れ」です。二人は、神が命じられたことに対して、的外れな行動をとったゆえに、堕落しました。聖書が示す罪とは、神の言葉とご意志に対して、的外れな行動や言動や思いをすることなのです。
アダムとエバが的外れな行動をとったゆえに、その後に生まれてくる人間のすべてが、神から離れ、神の言葉と意志に対して、的外れなこと、悪にしか、心が向かなくなってしまったのです。そして、罪のゆえに、人は、自分自身の力で神へと心を向けることができません。
人の心が神に向くためには、罪から救い出されなくてはなりません。それゆえに神は、イエスを世に送り、イエスは、神でありながら人となられ、神の言葉とご意志に従順に従い、ご自身の命を犠牲にして、人の罪の贖いとなってくださったのです。
人は、信仰によって主イエスを信じ、救われることで新たにされます。それによって、私たちの心も新たにされ、的外れな罪、悪に向くのではなく、神の言葉とご意志に向くようにされます。心を神に向けることこそ、人がなすべきことです。
人は、いまだ罪が残るために、悪へと心が向きそうになります。しかし、そんな弱い私たちのために、イエスは、天にあって私たちのために祈り、聖霊を通して私たちと共にいて、私たちを励まし、善なる正しい道を進むことができるようにしてくださるのです。
※ホームページでは音楽著作権の関係上、一部をカットして放送しています。