リジョイス聖書日課

エゼキエル24章 神が主であると知る

放送日
2025年8月11日(月)
お話し
金原堅二(滋賀摂理教会牧師)

8月11日(月) エゼキエル24章

「エゼキエルは、お前たちにとってしるしとなる。…すべてが実現したとき、お前たちは、わたしが主なる神であることを知るようになる。」
日本聖書協会『聖書 新共同訳』エゼキエル書24章24節

 バビロンがエルサレムを包囲した日、主の言葉がエゼキエルに臨みました。それは、「不貞によってお前が汚れた…わたしが憤りを晴らすまでは、清くなることは決してない」(13節)との厳しい裁きの言葉です。神の民の罪は深く、エルサレムはどう清めようとしても無駄で、神の憤りを免れないという意味です。

 エゼキエルがこの悲痛な預言をした日の夕方、彼の妻が突然亡くなります。主は、その悲しみの中でも「声をあげずに悲しめ。死者の喪に服すな」と仰せになりました。エゼキエルはそのとおりに、声をあげずに悲しみ、喪に服しませんでした。

 すると、人びとが「あなたが行っているこれらの事は、我々にどんな意味があるのか告げてくれないか」と尋ねて来ます。そして、エゼキエルは、彼が声をあげずに悲しんだように、エルサレムが滅ぼされてもイスラエルの民が声をあげずに悲しむようになると預言したのです。

 愛する妻の急死はエゼキエルにとって深い悲しみだったはずです。それでも、信仰によって神に応答するところで、周りの人びとに神が主であると知らせることとなりました。

 神がなさることには意味があります。その意味を尋ね求めながら、きょう一日の歩みが、神を指し示す歩みとなるように心に覚えましょう。

 【祈り】

 小さなわたしの歩みが、神の栄光を表す器として用いられますように。