キリストへの時間

惜しまない愛を我が子に

申成日(広島教会牧師)

メッセージ:惜しまない愛を我が子に

【高知放送】

【南海放送】

 おはようございます。広島教会の牧師、申です。
 早くも、7月の最後の日曜日を迎えました。今朝は、家族の中で、「子ども」について一緒に考えたいと思います。といっても、お子さんがいらっしゃらない方もおられると思います。そのような方は、ご自分の子どもの頃を思い出しながら聴いていただければ幸いです。
 
 わたしは、成人した二人の子どもがいます。上の子は女の子で、関東の方で看護師として働いています。下の子は男の子ですが、重度の発達障害を持っているので、障がい者支援施設に通いながら一緒に暮らしています。
 
 このような家族構成なので、子どもたちがかなり幼い時から、妻は、娘に目を配るよりも、息子の世話をすることが多く、自然に娘は、「お父さん子」になりました。幼稚園の送り迎えはいつもわたしの番だったし、娘は早く自立して、中学生の時から親元を離れて、自炊しながら、高知県内の学校に通いました。そのような娘の姿を見ながら、妻はいつも、哀れに思い、涙を流しました。

 息子は今年25歳になりますが、障がいを持っていますので、いつも赤ちゃんを育てるような世話をしています。わたしは牧師の仕事の傍らに、毎日の生活が、彼の世話が中心となっています。

 「親は子育てが終わると楽になる」と言われていますが、必ずそうだとは思いません。いくら成人した立派な大人になっても、その子のことを心配するのは、親心だと思います。いつかテレビで、90代のお母さんが、70代の息子のことを心配する様子を見たことがあります。自分も老いていて、息子も老いていても、親心は変わりません。

 聖書で、子どもに対してその親がどうするべきなのかを教えている言葉があります。それは、「父親たち、子供を怒らせてはなりません。」(エフェソ6:4)と教えています。少し理解し難い教えです。今とは違って、父親の絶対的な権威があった時代に、「親に怒る子がいるのか」と思うからです。しかし逆に考えると、そのような時代だったので、余程のことではない限り、子が親に怒ること、逆らうことはなかったでしょう。つまり、そのような親になってはいけない、ということです。
 
 そして、そこに付け加えられている教えがあります。「神(主)がしつけ諭されるように、育てなさい。」(エフェソ6:4)という言葉です。それは、人々の罪を赦すために、御自分を十字架の死に渡すほど人を愛しておられるイエスが、人々を正しい道へと導くために、愛を持ってしつけ諭すように、父親も、そのような自己犠牲を伴う愛をもって、子どもをしつけ諭すべきであることを意味します。
 
 親だからといって、子の思いや考えを無視して、強い権威をもって押し付けるようなことをして、子どもに反発心を与えるのではなく、深い自己犠牲が伴う愛をもって、我が子に接し、その子が正しい道へと歩むことができるように育てることを言っています。
 
 昔から、親は、生まれてくる子に様々な期待を持っています。その子の名前に親の願いが込められていることもよくあります。しかし、子どもは自分の所有物ではありません。神様がわたしたちの家族に預けてくださった、大きなプレゼントです。

 わたしたちは、親として、その子どもを通して、まことの父である神の心を悟ることができます。放蕩息子のようなわたしを愛し、ご自分の独り子イエスを十字架の死にお渡しになったその無条件的な愛を、わたしたちは、自分が親になって、やっと少しは悟ることができます。そのような神の愛を覚えながら、我が子にも惜しまない愛を注ぐ親になっていきたいと願います。

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