キリストへの時間

最大の愛

放送日
2025年6月15日(日)
お話し
小出昌司(高知教会牧師)

小出昌司(高知教会牧師)

メッセージ:最大の愛

【高知放送】

【南海放送】

 おはようございます。高知市上町4丁目にある改革派高知教会牧師の小出昌司です。
 
 聖書は、旧約聖書39巻と新約聖書27巻から成る1冊の書物ですが、倫理道徳の書でもなければ、歴史書でもありません。私たち人間を救いへと導くための教えが記されています。新約聖書、特に福音書は、イエス・キリストについて書かれていますが、これも伝記ではなく、私たちが救いへと導かれるために必要な主イエスの言葉が、ぎっしりと詰まっています。

 私はもうすぐ81歳になりますが、主イエスの言葉の中で初めて衝撃を受けたのは、ヨハネによる福音書15章13節の「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」という言葉です。こんなこと私にできるわけはない、とばかりに忘れていたある日、この言葉の実践であるかのような出来事を知りました。

 それは、私が住んでいた和歌山市からそう遠くない、日高という町に面した紀淡海峡で起こった海難事故です。デンマークのエレンマークスという貨物船が現場に差しかかった夜、火災を起こした徳島の木材運搬船を発見したのです。直ぐに救助艇を下ろして船長を助け出しのですが、船長は、本船に乗り移る時に、力尽きて、強風の海に転落したのです。

 その時、クヌッセンという機関長がロープ付きの浮輪をもって海に飛び込み、船長を助け上げたのですが、船長が本船に乗り移ったのを確認したあと、力尽きて、命を落としたのです。のちに、機関長の部屋を整理した時に、母親から譲られた聖書があったということを知り、主イエスの言葉通りに実践をできる人がいることに衝撃を受けたことを覚えています。

 その衝撃が薄れかけていた頃、また同じような出来事があることを知らされました。それは、日高町よりさらに南の南部という町の労祷学園を訪ねた時のことです。飾られている船の舵輪を見てお尋ねしたところ、創設者であり、学園長である升崎牧師は、一時入園していた「忠ヤン」という少年の話をしてくださいました。
 
 これは、クヌッセン機関長の出来事よりも古い話ですが、脳障害のために知的ハンディキャップのあった彼は、無断で学園を出て放浪中に、機帆船で働いていた時、その船が新宮沖で座礁して、船底が破れて浸水したのです。

 その時彼は、その穴に、自分の足を太腿まで突っ込んで浸水を止めたために、船は沈むことなく、無事に陸につくことができ、乗組員は助かったのですが、片足を失った彼は、出血多量のために命を失ったという出来事です。その舵輪は、のちに船長から贈られたものだということでしたが、牧師は、学園で、堤防に空いた穴に腕を突っ込んで浸水を防いだハンス少年の小説を読み聞かせていたからでしょう、といっていました。

 「友のために命を捨てる」ということは、十字架の死を意味していますから、主イエスに限られた愛ではありますが、主イエスの愛に留どまっている人の中には、主イエスの犠牲の愛に倣って、見ず知らずの人のために自分の命を投げ出した人は、日本だけではなく、世界中に数多くいるのです。

 主イエスは、「わたしの命じることを行うならば、あなたがたは、わたしの友である。」(ヨハネ15:14)といわれていますから、この機関長も忠ヤンも、主イエスから「友」と呼ばれるに相応しい人だと思います。私たちにはとても真似のできることではありませんが、主イエスは、私たちをも「友」と呼んでいてくださるのです。なぜなら、私たちは、主イエスが何のために十字架に架けられたのかを知らされているからです。

 私たちを友と呼び、私たちを救うために命を投げ出された主イエスが、私たちに与えておられるのは、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ15:12)という言葉です。主イエスの愛の本質は、隣人愛に留どまらず、敵に至るまでの愛ですから、誰をも憎まないということが根本にあります。
 
 私たちのような、弱く、罪深い者にとっては、とても習得できる愛ではないのですが、主イエスが十字架の上で表わされた究極の愛によって、救いの中に入れられた私たちは、主イエスが送って下さった聖霊の働きによって、憎んでいる人さえも愛せる愛に、段々と近づかせていただけるのです。

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