山下 正雄(ラジオ牧師)
メッセージ:絶望の先にあるもの
【高知放送】
【南海放送】
おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
今日は、「イースター」です。イースターは、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことを記念する日です。
しかし、ほとんどの人には、「そんなの関係ない」と思われるかもしれません。死者が生き返った昔話など、自分には関係ないと、そう思うのも無理ありません。しかし、少しだけラジオのチャンネルをそのままに、耳を傾けて頂けたらと思います。今日は、あなたの人生にも関わる「絶望と希望の話」をしたいと思います。
人生で、「もう終わりだ」と思った経験はありますか。大切な人を失ったとき、仕事や人間関係で行き詰まったとき、先の見えない苦しみの中でいるとき。「もうダメだ」、「これから先には何もない」と思う瞬間が、誰にでもあるのではないかと思います。
実は、今からおよそ二千年前、まさに、そのような気持ちを味わっていた人たちがいました。イエス・キリストの弟子たちがそうでした。
イエス・キリストは、人々に愛と希望を語り、病を癒し、貧しい人や弱い立場の人たちに寄り添いました。しかし、権力者たちは、イエス・キリストを疎み、十字架にかけて処刑してしまいました。弟子たちは、絶望しました。すべてが終わったと、そう思いました。イエスの遺体は、墓に葬られ、希望までも一緒に埋められたかのようでした。
ところが、その三日後、驚くべきことが起こります。イエスの遺体を収めていたはずの墓が、空っぽになっていました。そこにいた天使が、墓を訪れた女性たちにこう言いました。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」(ルカ24:5-6)
女性たちは、この知らせを弟子たちに伝えました。しかし弟子たちは、最初、信じませんでした。「そんなバカなことがあるか」と。しかし、後に彼らも、復活したイエスと出会い、人生が一変しました。
「死んだはずの人が生き返ったなんて、信じられない」…そう思うのは当然です。単なる蘇生ではなく、死んだあと、三日も墓の中に置かれていた人が生き返るなど、経験上ありえないことだからです。だからこそ、女性たちから報告を聞いた弟子たちも、その馬鹿げた報告をすぐに信じようとはしませんでした。
しかし、この話は、ただの奇跡物語ではありません。大切なのは、「絶望の先に希望がある」ということです。私たちの人生でも、「もうダメだ」と思う瞬間があります。しかし、そこで終わりではありません。神は、想像もしない形で、新しい道を開いて下さいます。
今、あなたが何かの「墓」の中にいるような気持ちでいるなら、どうかこのイースターのメッセージを思い出してください。「ここにはおられない。復活なさったのだ。」絶望の先には、新しい朝が待っています。イエスの復活がそのことを示しています。もしかすると、あなたの人生にも、新しい希望が訪れるかもしれません。
イースターは、ただ過去の出来事を記念する日ではありません。それは、今を生きる私たちに語りかけています。死がすべての終わりの象徴のように思い込まれているこの世界に、イエス・キリストの復活は、その終わりをはるかに超える世界を垣間見せ、保証する出来事です。
何よりも、イエスの十字架を目の当たりにして、恐れと絶望でおじまどうしかなかった弟子たちに、死さえも恐れない人生の価値感を見出させました。キリストが死者の中からよみがえった出来事は、合理的にものを考える私たちには、理解不能の出来事であるかもしれません。しかし、死からの復活が理解できないとしても、弟子たちの生き方を変えたその力を、私たちは否定することができません。
絶望の先に、人知を超えた希望と力を、神は見せてくださいます。
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