聖書を開こう

宣教の困難は想定済み(マタイ10:16~25)

放送日
2024年12月12日(木)
お話し
山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  宣教の困難は想定済み(マタイ10:16~25)

ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

「羊」と聞くとどんなイメージを抱くでしょうか。かわいらしい、温和な動物でしょうか。反対に「狼」と聞くと、危険で攻撃的な印象を抱くかもしれません。

実はイエス・キリストは弟子たちを遣わすに当たって、その遣わされて行く場所が、狼の群れのようなところだとおっしゃいます。しかも遣わされていく弟子たちは羊のようだとおっしゃっています。

きょうは、イエス・キリストが弟子たちを派遣するにあたってお語りになったこの言葉を掘り下げていきたいと思います。信仰生活を送るうえで私たちもまた困難な状況に置かれるときがあります。その時どのように信仰をもって行動すべきか、その指針をご一緒に学びたいと思います。

それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書 10章16節~25節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう。」

イエス・キリストは弟子たちを派遣するにあたってこう語られました。

「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。」

羊は無防備で、狼にとっては絶好の標的です。弟子たちが送り出されて行く先は、弟子たちやその伝える言葉を容易に受け入れてはもらえない環境でした。弟子たちが伝えるのは「福音」、つまり「良い知らせ」なのですから、みんなが喜んでくれてもよさそうです。しかし、そうとは限らないのが現実です。

神の国の福音は、聞く人の人生を変える力があります。しかし、それは言い換えるなら、現状を少しも変えたくない人にとっては耳障りな話です。そういう意味で、遣わされていく先が狼の群れとなりうることは避けられません。

私たちもまた、信仰や価値観が必ずしも歓迎されない状況に置かれることがあります。家庭や職場、社会全体の中で、時に孤立を感じることもあるでしょう。しかし、イエス・キリストはそのような状況を予想し、それでも送り出される意味を教えています。それは、神の使命が私たちに与えられているからです。

そのような環境の中に送り込まれる弟子たちに、イエス・キリストは助言を与えておられます。

「だから蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」

この二つの性質は、一見すると相反するもののように感じられます。旧約聖書によれば、蛇は「野の生き物のうちで最も賢い」(創世記3:1)と言われています。その知恵は使い方によってはずる賢さともなります。一方で鳩は純粋さの象徴ですが、旧約聖書のホセア書7章11節には、鳩のようだとは、愚かで悟りがないことの譬えにも用いられています。

イエス・キリストは弟子たちに、蛇のような賢さで危険を避けつつも、純粋な心を失わないように求めました。伝道の現場では知恵が必要ですが、その知恵は人を陥れるずる賢さではありません。正しい方法を選ぶ賢さです。また、鳩のような素直さは、どんな状況でも神の導きを信じる心から生まれます。それはこの世の人たちから見れば、愚かだといわれるかもしれません。しかし、現代においても、私たちは賢さと純粋さを兼ね備えた信仰をもつよう求められています。

狼の群れの中に送り込まれる羊であるからこそ、賢さと愚かなくらいの純粋さが求められているのです。私たちは、決して羊の群れの中に送り込まれる狼ではありません。力に訴えて福音を語ることは許されません、また狼の集団の中に送り込まれる完全防備の無敵集団でもありません。神が与えてくださった知恵を用い、神の力を愚かしいほど信じる純粋さで立ち向かうほかはないのです。

イエス・キリストはさらに、弟子たちが直面する迫害にも言及なさいました。

「あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれ、総督や王の前に引き出されて弁明することになる」

イエス・キリストは遣わされる弟子たちの身の上に降りかかる出来事を決して曖昧にはされません。弟子たちはイエス・キリストと共に今まで過ごして、そのことを既に実感していたはずです。確かに、一方ではキリストに対する熱狂的な歓迎のムードが民衆のうちにはありました。しかしそれと同じくらい、いえ、それを上回るくらいに、イエス・キリストに対する反感もありました。

そのような状況のもとで弟子たちは何を話すべきかと心配になるでしょう。しかし、主イエスは「心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる」と語られました。

人間的に見ればピンチであるかもしれません。しかし、その時にこそ、語るべき言葉が与えられて、大胆に福音を語る機会となるのです。

私たちの力では解決できない問題があったとしても、神の霊が必要な知恵や言葉を与えてくださいます。その約束を信じることが、鳩のような素直さを持つことの意味です。

最後にイエス・キリストは、「弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない」と語られました。師であるイエスご自身が迫害を受けたのであるなら、その弟子たちも同じように困難を経験することは避けられません。しかし、主イエスはそれを恐れる必要はないと教えておられます。なぜなら、神の計画が常に弟子たちとともにあるからです。

困難な状況に置かれるとき、私たちは羊のように弱く感じるかもしれません。しかし、イエス・キリストが弟子たちにお与えになった教えを思い出してください。蛇のような賢さと鳩のよう素直さをもって、神の使命を果たすために立ちあがる勇気が与えられます。どんな状況でも神が共におられることを信じる信仰を持ち続けましょう。

今人気の記事をチェック

新着番組

  1. 信仰の歩み

  2. かるおしゃの日~マラソン、落語、野木亜紀子

  3. 罪を犯さないように

  4. 安息日と善き行い(マタイ12:9-14)

  5. 絶望の淵に主が来られる