私たち人間は、罪の赦しを請わずにはおれない存在です。ですが、私の罪の赦しと、私が他者を赦すこととは決して切り離すことができません。そのことを教えているのが“主の祈り”の第五の祈りです。
“主の祈り”の第五の願いは、罪の赦しを求める願いです。
信仰者としての必要から言えばこのことをまず祈らねばと思いますが、すでに罪を赦されているはずの私たちがなぜ赦しを請わねばならないのかという疑問もわきます。さらに、私たちの罪の赦しと他者の赦しはどちらが先かなど、なかなか理解に苦しむ願いかもしれません。
信仰問答の答によれば、この願いはまず「わたしたちのあらゆる過失、さらに今なおわたしたちに付いてまわる悪を、キリストの血のゆえに、みじめな罪人であるわたしたちに負わせないでください」という祈りです。
この答は、使徒信条の「罪のゆるし」についての解説(問56)と内容的にはほとんど同じです。すなわち、わたしのすべての罪と、わたしが生涯戦わなければならない罪深い性質を、キリストの償いのゆえに神が覚えようとなさらないということです。問題は、このようなキリストによる赦しにあずかりながら、なお「みじめな罪人」と感ぜずにはおれない私たちの心なのです。
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使徒パウロは、キリストを信じる信仰がもたらす罪の奴隷状態からの解放を大胆に伝えた人ですが、それでも自分が望む善は行わずかえって望まぬ悪を行ってしまう罪深い自分自身を嘆いて「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」と叫ばずにはおれませんでした(ローマ7:24)。
光に照らされれば照らされるほど、闇に隠されていたものは明らかになるものです。信仰に進めば進むほど、自分の愚かさや弱さなど、罪人としての自分の姿はいっそう際立ってきます。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と目を天にも上げられずにひたすら胸を打ちながら祈った徴税人のように(ルカ18:13)、私たちもまた天の御父に祈らずにはおれなくなるでしょう。しかし、そのように悔い砕かれた魂こそが、実は神が私たちからお求めになるいけにえなのです(詩編51:19、ルカ18:14)。
このことは、親子関係を考えるとわかりやすいでしょう。子どもが悪いことをした時に“ごめんなさい”を言う。“ごめんなさい”を言わなければ親子関係が切れるというわけでは必ずしもありません。どんなに悪い子であっても我が子は我が子だからです。しかし、その子が自分の非を認めて悔い改めつつ人間として成長していくためには、“ごめんなさい”を言うことが大切なのです。
ですから、この第五の願いは、一般的な赦しを請う祈りと言うよりは、神の子として成長していくための祈りだと言うことができましょう。聖であると同時に愛である天の御父の御前に“ごめんなさい”を言いながら成長していくための祈りです。
神の愛の証を内にもっている私が神の子らしく成長していくための祈りの言葉、
それが第五の願いなのです。
こう考えますと、次のことも自ずと理解できるのではないでしょうか。すなわち、そのように赦しを求める「わたしたちもまた、あなたの恵みの証をわたしたちの内に見出し、わたしたちの隣人を心から赦そうとかたく決心しています」と。
ここでの「隣人」とは、特に私たちに対して負い目のある人、罪を犯した人のことです。自分の罪の赦しは願うが、自分に対する罪やあの人この人の罪は赦せないということがあるでしょう。しかし、それでは私たちの心が平安であることはできません。
天の御父は、私たちが過去に引きずられることなく絶えず晴れやかな思いで生きることができるようにと、私を赦してくださいました。その私が、他人を赦せない苦々しい思いを抱えつつ生きることを、御父は決してお望みにはならないでしょう。
「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」との主イエスの教え(マタイ5:44)は、私たちが「天の父の子となるため」の教えでした(45節、傍点筆者)。悪人にも善人にも太陽を昇らせてくださるのが私たちの天の御父です。そうであれば、どうしてその子どもたちが憎しみを抱えたままで生きて行けましょう。
赦すことは決して簡単なことではありません。それは私の罪にしても同じことです。主イエス・キリストの御血潮をもってしか償うことなどできなかったのです。そのような神の愛の証を内にもっている私が神の子らしく成長していくための祈りの言葉、それが第五の願いなのです。
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