信仰者は、食事の前によく祈りを捧げます。英語ではそれを“Grace(恵み)”と呼んだりします。“主の祈り”の四番目の祈りは、そのような私たちの肉の糧の恵みに関する祈りです。
“主の祈り”の前半三つは御名・御国・御心という神に関わることについて、私たちの思いや生活を正すための願いでした。それに対して、後半の三つは「われら」のより現実的な必要についての願いです。その最初である第四の願いは、まさに私たち地上を生きる人間にとっての最も基本的な必要、すなわち「日用の糧をきょうも与えたまえ」という願いです。
「糧」と訳された言葉は「パン」という言葉ですが、単にパンのみならず、私たちの「肉体的に必要なすべてのもの」を意味しています。それらが日々、私たち皆に備えられることを祈り願うのです。
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初めて教会で“主の祈り”を学んだ時、このような願いが含まれていること、特に「罪の赦し」を願う第五の祈りよりも先に置かれていることを不思議に思いました。聖書の言葉に「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)とあるとおり、信仰者の生活は純粋に魂の救いを求めるものだと思っていたからです。
ところが、少なくとも“主の祈り”に教えられている願いは、そうではありませんでした。主イエスは、罪の赦しに先立って日々の糧を祈りなさいとお命じになりました。“時間が余ったら祈ってもいいよ”ではなく、まずこの願いを天の父に向かって祈りなさいとおっしゃったのです。
それは何より私たち人間が何かを食べずには生きて行けない存在だからでしょう。ちょうど親が子どもに“ちゃんと食べているか?”と尋ねるように、私たちの神は誰よりも人の食べ物をまず心配してくださる方です(創世2:16、出エジプト16章、1列王19:5、マルコ5:43等)。
まして私たちの弱さと苦しみを担うために自ら私たちと同じ肉体を身にまとわれた主イエスは、人の必要と思い煩いをよく御存知の方です。その方が、生きて行くために必要なものをまず祈りなさいとお命じになったことに、深い憐みと御配慮を感じないではおれません。
ですから、この願いを祈る度に私たちは、この方こそ「良きものすべての唯一の源であられること」を知る必要があります。実際、地上の生活が天の恵みによって豊かにされることは人類共通の認識でしょう(使徒14:17、17:25)。
空の鳥や野の花々でさえ心にかけてくださる御父が、
どうして御自分の子どもたちのことを忘れることなどありましょう。
しかし、大切なのは、単に良き物に恵まれるかどうかということだけでなく「あなたの祝福なしには、わたしたちの心配りや労働、あなたの賜物でさえもわたしたちの益にならない」との確信です(詩編127:1−2参照)。私たち人間に生きることの意味と喜びを与えてくださるのは、天の父だからです。
人の幸せは、持ち物の多少によりません(詩編37:16)。そもそもこの世界は神によって造られたのですから、日用の糧も労働もすべては神の恵みと祝福の賜物であるはずです。問題は、それらをきちんと神の祝福と受け止める心の目を持っているかどうかです。どんな小さなことにも、時に応じて開かれる神の御手の祝福を見て取る人こそ幸いです(詩編145:15)。そのような人の生活は、絶えず神の祝福で彩られることでしょう。
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私たちは何も持たずにこの世に生まれてきました。ですから、主が備えてくださる恵みで満足しましょう(1テモテ6:8)。何より主が共にいてくださることだけで、十分ではありませんか(ヘブライ13:5)。
したがって、“日用の糧”を祈り求めるとは、「自分の信頼をあらゆる被造物から取り去り、ただあなたの上にのみ置くようにさせてください」と祈ることに他なりません。ちょっと雨が降らないだけで食べ物に困り、ちょっと具合が悪くなっただけで働けなくなる私たち人間は、全面的に神に依存している存在です。その方に今日も生かされていることが、私たちの喜びです。
空の鳥や野の花々でさえ心にかけてくださる御父が、どうして御自分の子どもたちのことを忘れることなどありましょう(マタイ6:25-34)。何年分も蓄えようと欲張ったり(ルカ12:13-21)、必要以上に明日のことを思い煩ったりすることなく、一日一日、私たちの身も心も養ってくださる天の父の愛に信頼して神の子らしく生きてまいりましょう。
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